植民地朝鮮で20余年間も住んだ京城帝大の秋葉隆教授が残した文に「朝鮮語の障害」と記していた。今私自身はは「日本語の障害」があると思っている。その言葉の障害という背景には母語の存在がある。異文化をこなすのに自文化が障害になりうる。そろそろ柳美里氏の講演が間近になった。在日として在日、家族、民族、国家などをどう考えるか私は聞いてみたい。先日直接いただいた本について私の感想文をつけておく。
柳美里の「JR上野駅公園口」
崔吉城
私が日本語、それも東北弁の多い小説を読むということは平易なことではない。論文などとは違って日本語のボキャブラリーなど相当異なる読みになる。しかも純粋文学を読むということはただ分かる程度ではなく面白く、理解し、感動することだ思っているから難しい。柳美里の「JR上野駅公園口」を完全読破、感動を持している。その感動はおそらく読者それぞれ特異なものであろう。当分の間、この感動を自分のものとして保持したい。
文化人類学者の私の印象としては現地調査、丹念に取材したことによって作られた調査報告書エスノグラフィー、上野駅の歴史民俗学の論文としても読める。上野駅、上野公園、美術展。西郷小説と言えばストーリー、キャラクター、プロットなど地域の歴史や現状を描き込んでいる。単純なストーリーテラーではない。福島県の相馬出身の73歳のホームレスのカズさん。家族を養う為に東京へ出稼ぎ、21歳の息子が亡くなり、妻も65歳で病死、郷里の福島へ戻り心配してくれる孫娘が大きな津波に飲み込まれる。キャラクターが王様や英雄ではないホームレスである。この小説の主人公、ホームレスは栄華と尊敬を持っている天皇と対極点に存在する。「いま舞っている葉も、雨に濡れ人に踏まれた葉も、まだ枝についている葉も…」(河出文庫159頁)。家族、友人、職業、社会階層や階級などから裸の個人化への挑戦を読み取ることができる。天皇とホームレスの対比、幸と不幸などに直面している。
この作品を読んで昔、青年時代に読んだカミュを思い起こす。私はホームレスに関して知識が乏しく乞食のように思っていた。しかし彼女が描いたホームレスは真面目に生きてきても、誰にも起こりうる人生を語っている。乞食は働かず、依存型の生き方である。乞食依存型は社会には多く存在している。社会福祉を含めて考えなければならない。