朴元淳ソウル市長の自殺に「彼を自殺に追い込んだ原因は何か」と問う作家がいる。まるで自殺を他殺として受けとめようとする。自殺と他殺はどう違うのか。私は昔、自殺の島として有名な韓国の島で調査したことがある。自殺の多くの事例は酒、喧嘩などで怒り、興奮状態で手当たり次第、その辺の農薬を飲毒して自殺する人が多かった。それは自殺、あるいは本当に自分の自由意志による自殺と言えるのだろうか。一般的に多くの自殺は他殺のように扱われている。シャーマニズムでは自殺と客死の凶喪である死霊は恨み強い怨霊になる。韓国では伝統的に王が毒薬を送り、自殺させる「賜藥」という死刑があった。日本人は敗戦時、集団自決をした残酷な話が語られている。もっと酷い切腹、親子心中などの自殺方法もあり、自殺国としても有名な日本である。刑法として絞首刑や銃殺刑など残酷な極刑と思われる死刑もある。江戸時代には死刑や獄死などはそれほど強い刑とは思わず罰を加えてから殺す。死刑より拷問などの苦しい罰が怖い。地獄図を想像してしまう。日本ではいじめによる自殺は多く、他殺扱いとなる。自殺とは「自分を殺すsuicide」ことであり、英語では自分を殺す他動詞、他殺に近い。本当に自分の自由意志による自殺の「自死である」ending lifeとは区別する学者もいる。自殺の「自」、自由意志とは何だろう。日本独特な死生観がある。日本人の死生観、自殺、自死、切腹、自決、心中(一家心中)、武士道、忠臣蔵、葉隠れ、文学者の自殺などに表れている。特に日本は子供の自殺が多い。昔は文学者の自殺も多かった。武士道の精神によるか愛国主義により命を捧げる、殉国殉死などは本当に自由意志による自殺といえるのだろうか。名誉を意識したものかも知れない。その点で日本文学者の自殺、特に三島由紀夫の自殺に注目したい。自分の命を自分で絶つということは自由意志であろうか。いじめ、ハラスメント、ヘイトスピーチ、差別などによる自殺は他殺に近いが、そこに純粋に自由意志はあるのだろうか。民間信仰では全ての死は悪霊によって起きると信じられている。つまりすべての死は病名や死因があり、殺されるという意識構造があるといえる。それは元々自殺か他殺かは区別し難いということを指す。子供の時、雀を捕まえて飼ってみたが死んだ。その時、母は言った。「雀は自殺した」と。雀も自由が束縛されるよりは死んだ方がましだというメッセージであったのだろうか。韓国では若者が自由を求めて燓身自殺した歴史がある。「穀気を絶つ」の伝統は断食闘争に変って生き続く。私は生き方と関連して考えている。今流行している外来語のピーク・アウトである。敗者が逃げられない状況で究極的に選択した自殺や他殺ではなく、華麗なピークで死ぬことを望む。そのピークとは外的なものではない。生きている限り思索し、楽しく書く仕事を続けたい。平凡で穏やかな生活の集結の中、天寿を全うしたい。
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