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Channel: 崔吉城との対話
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植民地が作った英雄

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マニラのリサール記念公園を見回した。公園中央にはホセ・リサールの記念碑の塔があってその下の周りには接近できず距離をおくようにして二人の武装警備員がゆっくりぐるぐる回っている。その横の森には1896年リサール悲劇的に銃殺された刑の執行所にブロンズ銅像でその状況を表象演出されている。すなわち銃殺される場面を再現したのである。その地下には彼の死体が安置されて、寝ているという。彼の最後のお別れの詩はスペイン語で刻まれている。
 <最後の訣別> (加瀬正治郎訳)
さようなら なつかしい祖国よ 大陽に抱かれた地よ
夏の海の真珠 失われたエデンの園よ!
いまわたしは喜んできみに捧げよう この衰えた生命の最もよいものを
いや 生命そのものをささげよう
さらに栄光と生気と祝福が待っているなら 何を惜しむことがあろう
戦場にあって はげしい闘いのさなかにあって
人々は生命をささげたのだ ためらい まどうこともなく
そこがいかなるところでも ―糸杉 月桂樹 白百合の生うるところ
断頭台も広野原も 格闘も殉教の苦しみも
それらはみな同じもの われらの家と祖国にささげられたもの
暁の光をのぞみ見て 私はいま死んでゆくのだ
ほのぐらい夜をつきぬけ 昼の光へ導くために
紅の色が乏しければ私の生命の血で染めよ
なつかしい祖国のために私の血はみな注ぎつくそう
黎明の光を
鮮血の色に染めるため
私は夢みた はじめて生命のひらかれたとき
私は夢みた 若き日の希望に胸の高鳴ったとき
おお 東の海の宝石よ きみの晴れやかな顔をみる日を
憂愁と悲しみよりとき放たれて
きみの顔にかげはなく きみの眼に涙のない日を
わが生涯の夢 わたしの中の燃ゆるねがいよ
すべて来れ! いま魂はとび去ろうとして叫ぶのだ
すべて来れ! そしてきみたちが消えゆくことは美しい
きみたちは消えてゆくことに憧れているにちがいない
そしてきみたちの永遠の永い夜の胸にいだかれてねむれ
いつの日か わたしの墓の上の草むらに
きみが一輪の花の咲いているのを見つけたら
唇におしあて私の魂に口づけしてくれ
地下の冷い私の額は
きみのやさしさ きみの暖かい呼吸の力を感じよう
柔かな月の光を私の上に注がしめよ
暁のきらめく光を私の上に輝かしめよ
悲しい風の嘆きのうたを私の上にうたわしめよ
私の墓の十字架の上に一羽の小鳥のくるのを見たら
平和のうたをうたわしめよ
大陽をして空に水蒸気を立上らしめよ
そして清らかな天に向かって私の反抗を立上らしめよ
だれか心やさしい人あらば 私の非業の運命を嘆いてくれ
そしてしずかな夕ぐれに祈りをあげてくれ
おお わが祖国よ 私が神に抱かれて休らうことのできるよう
不運の死をとげたすべての人のために祈ってくれ
かぎりない苦難をうけたあらゆる人のために祈ってくれ
不遇の悲しみに泣いた母たちのために
夫を失い 妻を失った人たちのために 拷問の試練にあう囚人のために
そしてまた救いをうるであろうきみたちのために
暗い夜のとばりが墓苑をつつむころ
死者のみひとりめざめているとき
私の休息 ふかい神秘を敗らないでくれ
そうすればきみはきっと悲しいうたの反響をきくだろう
それは私なのだ おお わが祖国よ きみにささげる私の歌なのだ
十字架も墓標もきえ去って
私の墓も忘れられるとき
鋤でならし 掘り返すにまかせよ
私の骨はふきちらされて消え去るまえに
きみの地上にしきつめられるだろう
そして忘却は 私を気にもとめないだろう
きみの谷間と平野の上を私がすぎゆくとき
きみの土地と大気を鼓動させ 清めながら
色彩と光 うたとなげきとともに私はゆく
私の抱いている忠誠をいつもくり返しながら
わが憧れの祖国よ おまえの悲しみが私の心を悲しませるのだ
愛するフィリピンよ きけ 私の最後の別れの挨拶を!
私はすべてをきみにささげる 両親も血族も友人も
私は圧制者の前にひざまづく奴隷のいないところにゆくのだ
そこでは信仰の名によって人を殺すこともなく 神がつねに高きところに
私の心から引きはなされたきみたち皆よ さようなら
家から引きはなされた幼なじみの友たちよ
私は感謝しよう ものうい日々から免れたことを!
さようなら 私の道をてらしてくれたやさしいひとよ
すべての愛するものたちよ さようなら! 死の休息が待っている
安らかに、神様が保護下は私の祖国イヤー夏海の進駐、読んでしまった楽園!
今私は私の色あせた人生を喜んであなたに捧げようと思う。
より明るくて新鮮な祝福だ。死体をここに移葬したことは最近という。常にナショナリズムによって、あるいは彼を死をナショナリズムに利用しても国民は民族主義になかなか乗ってくれないようである。
決して惜しむことでない。

 スペイン植民支配者たちは主にイントゥラム城内に居住して原住民たちがスペイン話を離せないようにし覚えると舌を切る重刑に処すると噂があるほど徹底したと言われる。つまり支配者と被支配者を分離隔離の政策をとったのである。スペインは刃物と十字架を持って強圧的であった。それにリサールが抵抗して犠牲となってのである。スペインは彼を育って英雄化し(スペインに留学して医者となる)、殺してフィリピンの民族英雄となった。つまりスペインは2回も彼を英雄化してあげたようである。フィリッピンは隅々まで銅像、記念碑、地名、図書、貨幣などあらゆる手段で彼を尊敬するか、民族主義に利用するか、している。しかし国民は良い政治をしてくれる人であれば国籍や民族を問わないようであるという。
 その後フィリピンはアメリカ、日本に替わりながら支配されてきた。スペインに対して反感を有していたがアメリカの親切な政策を歓迎した。今マニラ中心部の海岸には広く大きくアメリカ大使館が置かれている。英語を習うことになって今でもアメリカの政治に肯定的な態度を見せる。栄養不足、日焼けにより平均寿命62歳位、しかし国民の幸福度が高いと言う。

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