運転免許のない私には運転は簡単と思う時がある。ただアクセルを踏んで、ハンドルを回すだけのように思える。ピアノ演奏も私はタイプライターを打つのと似ていると思うことがある。その話題にある人が本を読むのも同じではないかと反問され、戸惑った。パンソリでは音を知る「得音」が名唱になるという。ピアノの名演奏も「得音」を知らなければタイピングと同じであろう。学問も知り尽くしだけでは十分ではない。信仰も悟らなければならない。
大学では少人数の講義が多い。人気がないともいわれる。これは今だけの現象だけではない。小人数の寺子屋教育に戻って考えるべきである。私は漢文訓読の講義を唯一の受講生として受けたことをプライドと思っている。昨日美学者の金田晉氏が中井正一氏の話をしてくれた。中井が尾道で講義したとき聞き手はただ一人、母親だけであったという。中井氏は1900年生、応援団体験やスポーツ体験から集団や委員会の問題に「きれい」をもちこみ、スポーツの美学を創り上げた。オリンピックの美というとリフェンスタル・レニーの映画を思い出す。