昨日の礼拝は異変が起きた気分であった。朴米雄牧師が高い教壇から降りて説教をした。高い教壇を神秘的に守り信者の登壇を極力制限する今までの牧師とは違った。私は彼の謙遜さを感んじ、宗教革命者かと一瞬戸惑った。説教は彼自身が小学校4年ころ肺結核で死の不安と怖れの中でクリスマスを迎えた話を含む説教であった。私は自分の話を聞いているように感じ、彼に私もほぼ同じの体験をしていると話した。彼が主催するところで講演か証しを頼まれた。私の教会歴は長くてもこのような請託は初めてである。嬉しいと答えた。しかし語り部になってはいけないと戒める。
今週はクリスマス礼拝であり、教壇に生け花をささげる意思を表明したら意外にも受け入れられなかった。メリークリスマスの祝いも制限される。理由がありそうである。朴牧師が言うには牧師達は教会に教授が出席すると一歩引く姿勢をすると正直に言っておられた。聖書にはただの識者、博識者に対して批判的であり、信仰を求めている。私が識者として礼拝に参加するならば牧師を認めることはなかなか難しい。善なる牧会者として支えてきた。世俗的なこととは関係なく、私の信仰を守るために席を守っている。
今朝の山口新聞コラム
クリスマスが近づいている。街はイルミネーションのネオンやサンタクロース、クリスマスキャロルなど豪華な飾りやプレゼント用品が溢れている。まるで日本がクリスチャン国家のようにクリスチャン文化を発信する。私がよく目にする通りには教会とカギ屋が並んでいるがカギ屋の装飾ネオンが教会より豪華である。もちろんホテルや百貨店の飾りや商品の宣伝はあたかも日本がクリスチャン文化の中心であるかのように感じさせ、私は錯覚と混乱を覚える。
日本はキリスト教国ではない。普段はキリスト教の意識はなく、むしろキリスト教には否定的な印象を持つ人が多い国である。日本の宗教においてキリスト教信者総数は1%以下である。それに比べて隣国の韓国では30%弱といわれている。
日本ではカソリック教会様式の結婚式場は見事である。またキリスト教の遺産を世界文化として登録しようとする。キリスト教国家ではないのに山口市が「12月、山口市は“クリスマス市”になる」と宣言した。
暗黒の社会に光として現れ、人類愛を訴え教え、宣教して歩いて、殺されたイエスを記念するクリスマスである。祈りと礼拝の晩である信仰は意識されず、本質抜きの虚構の偽クリスチャン文化のように感じる。イエスの愛はただのクレージーラブではない。信、望、愛の意味を考えてほしい。