私の履歴には新聞配達がある。高校1年生の1956年に私は「東亜日報」300余部を配達した。学費調達のためではあっても新聞社への関心もあって後に朝鮮日報の編集局長を勤めた同級生の印輔吉君と話し合って始めた。当時は新聞は夕刊4面が一般的であり、新聞を折る作業をしてから走りながら配達する。300余家への道を覚えるのは難しかった。細道からアパートの廊下、庭、塀を通り抜け、南山の麓の岩道を走った。時には朝にも配達したのに何故か忘れている。時間を守り、集金することなど大変な仕事もあり、急用で休もうとしても替わり継ぐ人を探すのは無理、覚えさせるのも大変であった。後に東亜日報の愛読者、東亜放送のラジオに出演、女性東亜に寄稿したこともあった。私はこの経験があるから日本に無銭留学をすることができたのである。
1970年代には 東亜日報の記者たちが独裁政権に反政府運動をして記者職を失った。中には私の友人、知人もいた。金君はルンペンになった。植民地時代に反日民族主義の新聞であった。ベルリンマラソンの孫選手の優勝、日の丸を墨で塗りつぶした事件などで民族主義は称賛されている。今韓国の新聞の多くは反日である。その民族紙を運んだ私が今日本に住み、韓国の民族主義を見ている。そして世界を眺めている。
*写真前列が私