朝鮮半島の統一への動きのニュースを聞きながら、私は朝鮮戦争と休戦の時を思い出す。その体験を中心に「私小説」のように執筆したが、今朝韓国慶南大学校の張竜傑教授の「韓国戦争を通してみた民衆の両義的心性に関する一考察:『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか』を中心に」書かれた論文を読んだ。私の論文が今度のように本格的に分析されたのは初めてである。私が作家として評論家によって優雅なスマートな文によって論じられている。
私の戦争体験の証言的語りは従軍記者や映画に映る勇敢と悲惨さが強調されるもの、そのために書いたものではない。私は後に文化人類学を専攻したが幼いとき体験、観察したものを書いたものである。その点をキチンと理解してから民衆と市民、国家のイデオロギーによって分析されている。民衆は市民意識のない、イデオロギーに染まっていない、犠牲者・被害者になりやすい存在、しかし生き残る知恵のある雑草のような「民草」である。激戦、敗戦の時には軍人が悲惨な存在、乞食のように民家へ、そして略奪さえする。農民は軍人を疎外し、蔑視する。人間失格の動物化の現場である。私はそれを体験し、戦争から大きい教訓を得た。それが私の作家の意図かも知れない。張教授に感謝したい。
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張竜傑『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか』を中心に」
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