読者の書評:松田俊秀『帝国日本の植民地を歩く』
拝読し,色々と勉強になりましたが、とりわけ「広島平和記念資料館」と[南京大虐殺記念館」そして「シンガポールの植民地遺産」=植民者ラッフルズの足跡には深く考えさせられました。現役時代には広島で5年ほど勤務し、まだ独身だったので平和公園の近くに下宿していたのを思い出します。
大阪で生まれ、ソウルと広島市で育っています。早稲田大の文学部卒で広島の中国新聞社に入社、常務取締役の後、中国放送の社長に就任した後、1991年の市長選に当選し、市長になりました。市長時代には「原爆ドームの世界遺産化」に尽力し、みごとに実現しています。
国際平和会議などにも積極的に参加し「希望のヒロシマ」や「無援の海峡」などの著書も読みましたが内容は忘れました。原爆ドームはチェコの建築家ヤン・レッツェル氏が設計した建物なのですね。平和公園や原爆記念館を見学する日本人が戦争の加害者であったことを全く意識していないとのご指摘は汗顔の至りです。
原爆ドームは「原爆による惨禍の証人として保存する」という意見と「危険物であり、被曝の惨事を思い出させたくないので破壊すべきだ」という意見が対立したが、人類の歴史上最初の被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また核兵器の廃絶と平和を求める誓いの象徴として、保存しなければならないという側に傾いたのですね。
1969年私が17才の時に市議会が保存の決定をしたことは知りませんでした。戦争の犠牲となった被爆都市のシンボルとして、平和を訴える象徴として原爆ドームのレーゾンレートルは永遠だと思います。広島は戦争の悲劇を乗り越え、希望の象徴として強靭な精神力で甦ったと言えるのではないでしょうか。
大学卒業後小野田セメントに入社しました。(現在は日本セメント、秩父セメントと合併して太平洋セメント)太平洋セメントは環太平洋経営戦略があり、中国の南京にも合弁工場を建設しました。(1993年)当時の今村社長はスケールが大きく、国内市場は限界があるという見方で米国や中国、そして韓国に(双竜セメントに資本参加したが、2016年に撤退)進出しました。
私も現役時代に一度だけ南京に出張しています。南京に工場を建設する時は社内外から猛反対があったそうですが今村社長が日本政府の同意を得て決断したと聞いています。私は南京大虐殺のことは知っていましたので緊張感いっぱいで出張したのを思い出します。南京大虐殺記念館は見ていません。現地では外には出ず工場の中でジッとしていました。商店街では韓国に対しては印象が良く、日本に対しては印象が大変悪いというもの、歴史の審判ですね。
クリーン・グリーンのシンガポールは大好きな都市の一つです。ここでも日本は、英国の植民地からシンガポールを開放するという名分で侵略し、住民を無差別に殺傷し、拷問で死亡させるなど残虐なふるまいを行ったのでしょうか。それでは日帝は猛反発をうけて当然ですね。
シンガポールの住民の70%以上が中国系で日中戦争が起これば日本を最大の敵と見て反日運動が激化したのも自明の理だと思います。私は仕事と観光でシンガポールに二度行きました。まだマーライオン像が小さい時です。二度目の観光では大きくなったマーライオンを見学しました。植民者ラッフルズホテルの足跡も興味深く拝読しました。世界のどこよりも活気あふれるシンガポールを築いたのはラッフルズの功績なのですね。この項はもう一度読んで勉強します。 高著の内容は含蓄に富んでおり一度読んだだけでは理解出来ない所もたくさんありますので腰をすえて再読いたします。
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