今私には自慢すべき学生の一人倉光誠氏がいる。彼は医学博士を所持していながらも私が指導教授として博士課程を修了した方である。小児科の医者であり開業して古い。大学の近所であり毎週の読書会にも参加している。昨日まだ夏休み中の閑散なキャンパスにて彼が来るのを待っていた。彼は原稿のようなものを持ってきた。それは私のハングルの本『植民地歴史を正しく見る』の感想文であった。彼はNHKラジオから独学でハングルをマスターして韓国語弁論大会で優勝したことがあり、本欄にも紹介したことを思い出す。ハングルの本であり、日本では寄贈しようとしても数少ない人の一人である。彼の感想に耳を集中した。主に韓国の読者向けの本であり、日本人の読者の感想は貴重であるからである。
感想はどうだろう。ただの理解ではなく、読者自身が何を感じて考えたのか。彼が引用したテッサ・モーリス・スズキの文「過去についての知識が感情のアイデンティティをどう取り込むか…」つまり私には反日感情という感情をどう文化的に分析するかの問題への指摘があった。反日感情型文化の中に生まれ育った私が分析する資格があるのかこの本の序文で語った。彼は「팔이 안으로 굽는다腕が内側に曲がる」という諺にあたる日本のものを見付けられないといい、韓国人として中立、客観的な立場を守ることは難しいことを読み取ってくれた。そして中立的な立場をとっていると納得してくれた。