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Channel: 崔吉城との対話
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「大隅先生、おめでとうございます」

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 日本人大隅良典氏がノーベル生理医学賞を受賞されたことに韓国の「ヘラルド経済」新聞の社説に日本人が25人と万歳することや歴史上韓国では一人もいないことを悲しく思い、韓国の科学分野では夢にも考えられないことだと対比されると書いている。ノーベル賞は国家や民族を考慮して配分するものではない。むしろそれらを越え、無視して科学の成果をもって評価するものである。そのように評価されるからこそ権威ある賞なのである。オリンピックのように国家間競争を前提にした国際化的なものとは次元が異なる。授与する側は国家を対象とはせず、それを超越して行うにもかかわらず、それを羨望する側の国家は「わが国意識」をもって期待する。授与側と受ける側の意識は非常に対照的である。
 授与は国家単位ではない。研究成果は国家の背景を持つのは当然であるが、賞の趣旨は国家が対象ではない、もっと世界的遠大な人類への貢献度的価値観によるものである。したがって受賞はより栄誉あるものである。それは「施す心と乞食の心」の対比に比喩されるかもしれない。「大隅先生、おめでとうございます」。 

 일본인 오스미 요시노리씨가 노벨 생리의학상을 수상된 것에 한국의 「헤럴드 경제」신문 사설은 일본인이 수상자 25명을 기뻐 만세을 부르는 것을 보고 역사상 한국인이 한사람의 수상자가 없는 것을 슬프게 여기고, 한국에서는 과학분야에서는 꿈도 꾸지 못하는, 한국과 대비된다고 쓰고 있다. 노벨상은 국가나 민족을 고려해서 배분되는 것이 아니다. 오히려 그것을 넘고, 무시해서 과학의 성과만을 가지고 평가해서 행하여지는 것이다. 그러므로 권위 있는 상이다. 올림픽과 같이 국가간 경쟁을 전제로 한 국제적인 것과는 차원이 다르다. 수여 하는 쪽은 국가를 대상으로 하지 않는데도 그것을 선망 하는 쪽의 국가는 「우리나라 의식」을 가지고 기대한다. 주는 측과 받는 쪽이 아주 대조적이다.
 국가단위로 생각하는 것은 잘못이다. 연구 성과는 국가란 배경을 가지지만, 시상의 취지는 국가가 대상이 아닌, 더 세계적 원대한 가치관에 의한 것이다. 따라서 수상은 보다영예로운 것이다. 그것은 「베푸는 마음과 구걸하는 마음」의 차이라고 비유할 수 있다. 

과학분야는 꿈도 꾸지 못하는 우리의 처지와 너무 극명하게 대비된다. 우리는 후보는 고사하고 거명조차 되지 않고 있다. 한국의 기초과학 연구 현 주소가 고스란히 드러나는 대목이다.과학분야 노벨상 수상자를 내지 못하는 이유는 간단하다. 기초과학을 홀대하는 사회분위기에선 앞으로도 요원한 일이다. 


台風18号

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 台風18号の進路は北九州と山口に向かってくるということで昨日は大学も休講となり、私の講義もなかった。まずヴェランダの鉢物を中に入れるなど緊張態勢になった。特に実っている棗の鉢を窓際においた。棗がかなり赤く染まっていくのを観察している(写真)。ヴェランダに畳一帖ほどの日当たりの良いところでの嬉しい収穫である。中国からの留学生の宮さんから頂いた乾燥した棗を食べながら棗の木を見つめるのは楽しい。昨日台風18号はここを迂回、韓国を直撃した。台風と地震は日本のものであり、韓国は安全地帯と思っている人が多いが、先月韓国でも地震、そして今度は台風で大きい被害を受けた。
 講義が休講になった時間にアメリカ副大統領の90分のディベートをフルに聴けた。私にとって内容、表情、スピーチ、発言様式、司会などを観察しながら英語の学習などの時間であった。ロングウ―大学で民主党のケーインさんと共和党のペンスさんとのバトルのような討論であった。ペンス氏の落ち着いて論理的な発言に好感を持った。司会者は「副」とはただの「正」の正当化だけではなく、独自の思想、考え方を求めたが大統領候補の正当化が多く、それがバトルになった感がある。直後の世論調査でもペンスの好感度が高い。長い民主党政権の交代への希望も込められていると思う。休講の代わりに私自身の学習は熱かった。
 

 

台湾「国名を揚げてオリンピックにでることもかないません」

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 最近の学生、特に留学生はアルバイトを優先して講義を二の次にする学生が多い。中にはアルバイトのために留学に来ているような学生もいる。私も学生時代にそれに似たことで考えたことを思い出す。1960年代に韓国では学生アルバイトといえば家庭教師であった。いわば名門校へ合格させると多くの学父兄が集まり授業料が高くなる。当時私と友人の申君の二人は人気があった。それでも私は大学の授業を優先していたが、申君は受験生のクラスを優先し、増やし、予備校を作り、韓国トップの予備校を作るまで成功し、後にアメリカに移住して今はボストンでカメラショップをしている。大企業家となったのである。彼は成功し、私は負けたことになる。
 ここで学生の価値観を覗いてみる。教育と労働の関係、その価値観を模索するのが大学生時代である。一般的に人類史は長い間、労働を中心とした。子供の時から働いて、早く結婚し、今から考えると子供が子供を産み、短命による世代交代が早い。しかし人類は教育期間を長くするようになり、教育を受けてから働くことになった。つまらない学校の授業よりはアルバイトで稼いだ方が賢明だと思うかもしれない。自分の家庭菜園で取れたものだけを食べて昼寝を楽しんで生きるのが一番楽なのではないかとも考えられる。しかしそれは豊かな社会が滅亡し、原始未開へ戻る現象ではないかと私は懸念する。明日は土曜日。講義にはアルバイトのために欠席する人がいるかもしれない。公開講座「アジア共同体」の2回目の講義、担当は台湾中央研究院の黄智慧先生である。「国名を揚げてオリンピックにでることもかないません」という話をぜひ聞いてみないか。

民族のルツボ

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 今日2016/10/8東亜大学・公開講座「ITによる東アジア共同体の構築」の2回目、 台湾・中央研究院民族学研究所の黄智慧氏「多民族多文化社会の台湾から見たアジア共同体の構築」を要約してみたい。                      

 アジアとオセアニアの境界に位置する、日本とは国交がない台湾は人口2300万人。親日的なのに日本と国交のない国である。安保理の常任理事国であったが、1972年に脱退し今に至っており、オリンピックに出ることもできない
 17世紀以後、国家形成時代に、外からの人口移入、先住民との通婚で文化の混成が始まった。20世紀初期、先住民を対象とする征服戦争はなお続き、先住民はアジアで最後に征服された民族であった。台湾は「植民地」「戦争」の二重苦の歴史の中にあった時大規模な人々の集団移動が起こった。
 先住民族、ホーロオ(和佬)人、ハッカ(客家)人、日本内地人、外省人という台湾の5大エスニック・グループができ、文化的特質を兼ね具えて混在している。この民族のルツボはアジア共同体の基礎になるのではないだろうか。国家の観念を超え、人(集団、エスニシティー)の観点に立ち返ってアジア共同体の可能性と希望がある。                                 

「世界の捨て子、アジアの捨て子」

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 世界でも最も親日的な台湾が日本と国交がない。アジアとはゼロ、台湾と国交のない国は日本だけではなく、世界の国の総数は195ほどある。国際政治の場で「世界の捨て子、アジアの捨て子」と言う。それが黄智慧氏の講義のイントロであった。そして3万年前からの人類史、芸術性のある文化、17世紀以降の移民、植民地、戦争などで多民族国家となったことへ進行した。
 スカイプで中国山東省の李文哲氏、韓国慶南大学校の張竜傑氏、沖縄名桜大学の許点淑氏の3人が講義を視聴.一方フェースブックにライブで講義が映像で流した。折角の黄氏の話を切りたくないが、時間調整をしなければならない緊迫な状況になった。多民族国家であるところで私が関与し、フロアーの纐纈厚先生、そして3人のコメンデーターにマイクを向けた。中台関係の政治的な話は公開講座の趣旨に合わないので控えながらも張氏の発言は「国家という枠がなく活躍する台湾」という言葉で締めくくることができた。

エドワード・ゴーリー

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 人生の3分の2を信者として生活してきても生き方はそれほど変わっていない。ただ入信した時に大きく変わったのは確かである。今では礼拝の出席は日常、習慣となっている。昨日の礼拝の説教は長く、繰り返しで一つも心に残っていない。老後生活にはこのような窮屈な時間は嫌である。効果のない説教に私も壇に立って教え、講演などをすることが多いのでよく考えなければならない。
 「楽しい老後」とは何か。働く時期には仕事の充実感や給料をもらえるのは嬉しい。仕事から解放されてからは、趣味が楽しいという。趣味は働きではなく、プロではない。責任もない。開放感があるであろう。家畜が野生動物のように草原で草を噛んでいても首輪や絆は外れない。我が家のミミはリードを離すとほんの少しの時間は嬉しそうに走り回るがすぐに戻ってきてリードを持って欲しがる。繋がっていたいのである。人の心と同じである。
 美術館で絵本作家エドワード・ゴーリーの作品をみた。「世界中の読者を魅了しています」と宣伝されている。私は魅了されているのか、趣味や専攻が問われるところであった。ただ自書のブックデザイン、イラスト、挿絵・写真などの作成から関心があった。

台湾の劉枝萬氏が叙勲

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 私の台湾の知人である著名な民俗学者、今年92歳の劉枝萬氏が春の外国人叙勲受賞者となったと先週講義に来られた黄智慧氏から聞いた。ネットでも報じられている。私が劉氏と初めてお会いしたのは日本留学前の韓国であった。その後日本で再会し、私が90年代台湾に訪問して奥さんとご一緒に伝統的なお茶通りを案内していただき、夕食までご馳走になったことがある。奥さんは生け花の先生をしておられた。
 日本の一番長い植民地であった台湾人が日本の天皇から叙勲を受賞されたことを聞いて意外な感があった。韓国人からの反響はどうであろうと話題にしたら同僚が私を例に挙げた。例えば私のような立場の人が受賞したら韓国から酷く非難されるだろう。彼は言う。否、美空ひばり、力道山なども受けたと。彼らは韓国系日本人であったが、私のアイデンティティは韓国人。ワンアジア財団支援講座にも難しい問題がある。

「日本人はどこから来たか」

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 「アジア共同体」の講義が続いている。前回と同様学生と教員、市民が参加し、Skypeとフェースブックにライブ生中継で行われている。映像討論と質問もできる。担当者である崔吉城が前回の質問と感想を肯定、否定に関わらずず客観的に紹介する。先週の台湾からの講義では3万年前から現在まで人類史、そして多民族国家になったが、国交のない「アジアの捨て子」という言葉に中国からの留学生たちは捨て子ではない、中国があるよと面白いコメント、国家という次元を超えて発展している台湾島・国であると意見があった。それが政治的発言だという否定的な意見を言うも人いた。ネット上御覧なれる。
 今週土曜日の講義ではより古い時代、広い舞台の先史人類学からアジアを考える。アジアの人類史の研究はほぼ日本人が主導している。その一人である有名人の本学の鵜澤和宏教授は東京生まれ、東京大学大学院の博士、動物考古学を専攻している。早速「日本人はどこから来たか」と問う。日本人だけではなくアジア人にとっても関心が高い。アフリカから東方へ、混血と隔離を繰り返しながら移動し、男女の出会い、多様性が高い日本人、アジア人。10月15日午後2時半から4時までの公開講座にぜひ参加していただきたい。生中継もする。


スポーツの美学

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 運転免許のない私には運転は簡単と思う時がある。ただアクセルを踏んで、ハンドルを回すだけのように思える。ピアノ演奏も私はタイプライターを打つのと似ていると思うことがある。その話題にある人が本を読むのも同じではないかと反問され、戸惑った。パンソリでは音を知る「得音」が名唱になるという。ピアノの名演奏も「得音」を知らなければタイピングと同じであろう。学問も知り尽くしだけでは十分ではない。信仰も悟らなければならない。
 大学では少人数の講義が多い。人気がないともいわれる。これは今だけの現象だけではない。小人数の寺子屋教育に戻って考えるべきである。私は漢文訓読の講義を唯一の受講生として受けたことをプライドと思っている。昨日美学者の金田晉氏が中井正一氏の話をしてくれた。中井が尾道で講義したとき聞き手はただ一人、母親だけであったという。中井氏は1900年生、応援団体験やスポーツ体験から集団や委員会の問題に「きれい」をもちこみ、スポーツの美学を創り上げた。オリンピックの美というとリフェンスタル・レニーの映画を思い出す。


 

 

なぜ勉強しなければならないか

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 授業中に高卒と大卒とは違いがあるのか、質問された。学歴差別にならないように説明できるか、考えた。今の大学教育では専門学校の方がよいと思う人もいる。大学の使命は何だろう。しばらく議論した。その時中国の留学生がなぜ勉強しなければならないかという大きい疑問が投げられた。私の出番である。
 「楽しみの拡大」のためではないかと応えた。楽しさは食欲と性欲を満足する動物的なことだけを意味するのではない。遺伝子で生きることを越えて生きることを意味する。たとえば文字を覚えること、外国語の勉強も人生舞台を広げて、楽しさを広げるためであろう。働くために生きてきたような人生、老後は昼寝しかできないということは正しい教育を受けていないのかもしれない。大学時代には専門技術教育はもちろんであるが、それよりも深く考える時間を以て人生、社会、そして自分の歩むべき道を選ぶことも考えることも必要であろう。 

言葉と文字

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 十数年まえ広島大学を定年する時、研究はもちろん人生も終わりという末期不安に落ちた。私書の多くを韓国の日本学科など数か所に寄贈し、英語の本は貰い手もなく、私がいつか読むつもりで残した。それが主に自宅の書棚にある。その中から取り出して読書することがある。英語の実力が高調したとは思えないが読書を楽しんでいる。それは加齢による経験の力だと思っている。読書だけではない。現地調査ノート、録音や撮影した資料を再度見ることもある。しかしその方法を考え直さなければならないと思い一冊の本を手にした。
 ジャックグウディの本(Jack Goody,The Interface Between the Written and the Oral)が面白くて、目が離せない。彼はアフリカのガーナーでインタービューしたことなど現地調査に基づいて文字の起源を論じている。文字の前の時代は言葉の時代であった。私も生まれ故郷での生活を振り返ってみた。全くオーラルの世界であった。門中の宗孫の一人が漢字の祝詞を読むのが最高知識人であっても漢字を使いこなせる人はなかった。私の父はハングルとソロバンができた。しかしオーラルの村にもコミュニケーションがあり笑い、喧嘩、和解などが行われた。私はこのように原始時代を生きてきた。私だけではなく人は原始人のように生まれたのである。
 


 
 

 

ビビンバ文化論

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 昨日のワンアジア財団の支援講義は本学の考古人類学者の鵜澤和宏教授が担当して行われた。私は平素彼と研究内容を話し合っていてほぼ対話式で進行した。彼は人類が50万年前から南アフリカから日本列島まで移動したルーツを語り人類は混血、雑種であり、遺伝的に純粋な韓国人、純粋な日本人、純粋な中国人、というものは科学的には見つけることができないといい、「アジア人はビビンバみたいなものです」と言い切った。ビビンバはごはんとトッピングされているナムルと混ぜ合わせてもおかゆ状になることはなく、混じった状態でそれぞれの味をしっかり出しており、その調和がとてもおいしい。この比喩話で聴衆の表情は明るくなった。それには私の質問は多かった。ここから対話式のチームテーチンゲになった。


 C:なぜ人は移動するのか、それはフロンティア、ロマンスを求めた行為であろうか。
 U:食べ物を求めて移動から定住へ。
 C:日本人の起源は?以前一緒に議論したことのある宝来氏は血清による調査で世界で日本人に一番似ている民族は朝鮮人といわれたが、DNA研究成果による差はないのか。
 U:その差はほんの少ししかない。大陸の原アジア人から埴原和郎氏(1927-2004)は弥生時代渡来人によって日本人は二重構造説を出した。
 C:埴原氏の『日本人はどこから来たのか』の本がある。
 U:弥生人は稲作文化をもたらせた。
 C:稲作文化を中心に、文字を共有する漢字文化圏、思想を共有する儒教・儒学の文化圏であるアジア。しかし近代国民国家になって植民地や戦争によって関係が難しくなっている。
 U:Kポップなどのユースカルチャーの大衆文化が流れ、共通性をもつ。
 張竜傑:日本文化を開放する前はアニメは日本のものという意識がなく流入されたが金大中大統領の開放政策によって日本のアニメという意識ができた。
 C:フランスのパリでは日本のアニメーションが流行り、日本が好きになったという発表をそこで聞いたことがあるが韓国でもその傾向があるか。
 張:やはり若者たちが日本が好きになる傾向がある。
 C:私の調査では老人層より若者が反日的あったが…。
 張:今は変わっていると思う。
 U:喧嘩しても和解できれば…。

夜は「源平Night in 赤間神宮」を鑑賞
 

 


 

 

「源平night in 赤間神宮」

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 観光は良い事業となっている。遺跡など見世物の豊富なところは黙って設けるようであり、それがないところは見世物を作り出す。熊本地震後韓国からの観光客が激減して困っている。私が住んでいる下関は地震や台風も少なく安全であり、歴史的記念物や温泉も多いが観光活動は下手のようである。しかし先日韓国からの団体観光客が下関、秋吉台、萩などに巡行したことを聞いている。ドイツから来られた家族が山口古文書館に案内されたといい、観光から探訪、調査へと逆に変わっていくようである。
 土曜日の夜「源平night in 赤間神宮」をはっじめて鑑賞した。前置きに観光客を対象に11年前から恒例で行う行事であるという。ちょうど私が下関に移り住み始めたころからである。神典の前の階段で照明スポットライトを浴びながら「義経八艘飛び」から「Musical維新~奇兵隊~」まで、関門海峡でおきた時代の潮流が一つの舞台に仕立てられた歴史舞台劇、感動した。200席の満席、住民・村民の楽しい時間であった。

蜘蛛の巣

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 「生きている口には蜘蛛が巣を作らない(산 입에 거미 줄 안 친다)」という韓国語の諺、生きている間は食べることができるという意味である。今私の机上に深夜に蜘蛛が巣を作ったのを見つけた。どういう意味か、予兆か。新しい研究に挑戦しようかと思った時、忙しいのでやめようかと思ったが、プラス思考にすることにした。毎週の公開講座の担当、12月の科研グループでの発表、来年3月に映画「冥界婚」について有名作家柳美里氏とのトークショーなどが続く。蜘蛛が巣を作らないように頑張らなければならない。
 釜山と下関の姉妹都市40周年記念行事に中尾友昭市長を団長として多くの人が今日フェリーで出発する。下関の朝日新聞の上山崎雅泰記者からその意味についてインタビュー、私の日韓関係に関する見解が求められた。いかに政治や政治家の関係が悪くても民間人は友好的、倫理的であり交流は深められていると語った。そのことが今朝の朝刊に「友好は高まっていく」など12行にわたって書かれている。

「亜細亜」の「亜」は「醜い、低い、次」

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 今週の土曜日10月22日は第4回目ワンアジア財団の支援公開講座が中国浙江工商大学の教授金俊氏が「近代におけるアジア言説の成立とその性格」についてなされる。アジアという概念が形成されてきた経緯が分かる。アジア認識の基本概念、内容の要点は次のようである。 

「asia」という言葉は紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけての頃、古代メソポタミアの人たちがエーゲ海の東を「アス」 asu (「東」「日の出」)、西を「エレブ」 ereb (「西」「日没」)としたことからはじまる。後に「アス」にラテン語の接尾辞「イア」 ia がついて Asia の語となった。ローマ帝国の属州の名称になってから範囲は広くなって現在に至っている。イエズス会宣教師のマテオ・リッチと「坤輿万国全図」(1602)に「亜斉亜」、アダム・シャールと『職方外記』(1623)に「亜細亜」は「亜」(醜い、低い、次)「細」(小さい、かすか)という観念がある。東アジアでは昔から「天下」の「華」と「夷」の二分構造による世界認識があったが、16世紀になるとヨーロッパからの世界地図などの地理知識の伝播により、様々なアジア認識が生じた。 詳しいことはぜひ東亜大学13号館202号室で14時30分からの講義をお聞きいただきたい。

 


「学者を作るつもり?」

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 家内が今私がある人にインタビューしたもののテープ起こしをしている。大変な作業を手伝ってくれる。私がその作業の意味を理論書を以て説明すると彼女は「学者を作るつもり?」と言った。病院での看護や介護、家の中の「家内」としての家事や私の介護以外にも研究そのもの、各種の研究会、講演会など共にするスケジュールがいっぱいである。教会でもそうである。その教会の臨時担当の牧師がわが「家庭尋訪」(韓国語)の予定が報じられている。数年前わが家にきてイエスの首弟子ペテロの裏切りの話をもって説教をした牧師が再度訪問することとなるかもしれない。
 イエスが弟子たちに「あなたがたは、今晩、わたしのゆえにつまずきます。」と言われた時、「私は決してつまずきません。」と、最も強くそのことを否定したペテロが裏切ったという話である。私も人間関係の中で裏切りに不快な思いをすることが多くある。しかし自分が裏切ったとは思えない。聖書に戻って考えてみた。ペトロとイエスの関係は不変なものであった。尊敬心と愛によって結ばれていて弟子の中で首弟子になっている。彼はイエスの愛に泣き、彼の人生の新しい出発があったと牧師はいうつもりだったであろう。しかし家庭訪問先で裏切りの聖句を以てメッセージをするのはいかがなものかと思う。

シリア戦争

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 昨日の読書会では生命倫理について議論した。長い人類史の中で人は食料を探して特に肉食をしながら移動してきた話である。ある人類集団が他の人類集団と殺しあってきたことに関することである。人類史とは残酷史であろう。しかし結ばれ混血を続けてきた人類史でもある。それで出来上がった多民族が真摯に平和友好になるのは可能であろうか。シリア戦争の映像を見ながら2千年前イエスが人類愛を訴えたその地域では不和と戦争は絶えず続く。人類愛の「愛」とはなんだろう。感情的なものと思われがちであるがフロムは『愛の芸術』で愛は知的であり、倫理や社会的なものと主張した。
 今生命倫理や人権思想を強調する風潮が流行っている。私は釣りやハンテングの映像には抵抗がある。動物の生命を尊重し、菜食主義者もいる。モルモットさえ実験用でも殺してはいけないという。しかし肉は食べる。考古人類学専攻の鵜澤和宏氏は人骨にも人権意識があり、骨返還の民族運動もあるという。医学博士の倉光誠氏は死体を物体として考え、解剖するという。しかし解剖後には葬式を行うのはなぜだろうかと。
 

 

オリエンタリズム

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 今日の第4回目ワンアジア財団の支援公開講座は中国浙江工商大学の教授金俊氏が「近代におけるアジア言説の成立とその性格」を担当される。アジアという概念が形成されてきた経緯が分かる。西洋人のアジア認識、 Asiaというの語はローマ帝国の属州の名称になってから範囲は広くなって現在に至っている。「亜細亜」は「亜」(醜い、低い、次)「細」(小さい、かすか)という観念、新しくオリエンタリズム的なものを語る。東亜大学13号館202号室で14時30分からの講義をお聞きいただきたい。

知識人の輩出地

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 秋雨の午後公開講義は中国浙江工商大学の金俊博士が担当した。彼とは中国延辺大学の教員の時出会い、広島大学で博士号取得した方である。広島大学時代の中国からの留学生の中には彼以外にも5人の留学生が北朝鮮と旧満州の国境の和龍市出身であった。朝鮮族の中では最も多く知識人を輩出したという。私はそこを訪問してみたい。なぜであろう。風水信仰的にも面白い(笑)。彼に聞いた。ただ貧困村に過ぎないと言い捨てる。だからこそ勉強するようになったのではないか。それに同調する意見は多い。私は頷かなかった。貧困村は多い。知識への刺激、あるいは文化的影響を考えた。金氏は日本時代に鉄道が敷かれたという。それもそこだけのことではない。日本時代の教育都市であったという。中学でも日本語を学んだという。確かに彼の日本語は私より上手い。そのような地域も多い。なぜそこか。
 世界は広く繋がっているが人工意識的に境界を作ってきたという。その境界には他者意識、イデオロギーによって壁が作られていくと説明された。それについて地理学者の川村博忠先生は境界が支配者の統治権の領域の表示であろうと主張した。さらにヨーロッパからアジアは劣って小さいというアジア観、マテオ・リッチは「小国」といったと紹介されたことに疑問を提起した。私は中国の大国主義より小国論を真剣に考えるべきではないかと中江兆民の小国論の一読を薦めた。日本中心のアジア観については名古屋在住の思想史学者の姜海守氏の岡倉天心のアジア観が紹介された。私は福沢諭吉の脱亜、そして植民地との関連に触れた。金氏は最後に一言、多様な民族たちへの愛、そして私の和解のことばで締めくぐった。
 

女牧師と男教授

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 牧師のいない教会は成り立たないのだろうか。私が所属している教会は「無牧」(牧師がいない)である。代わり順で牧師が登壇して説教をしている。そして必ず牧師の着任を願う祈りが含まれる。昨日は福岡から来られた女性牧師李恵蘭氏が旧約聖書のハガイ書の聖句を以て失望している人々たちに勇気を出せという説教をした。後に祈りなさい、祈ったらできないことがないという。私の答え「私はシャーマニズムの研究者である」、彼女は一瞬黙っていた。なぜであろう。話は延々と続いた。
 李牧師は母を牧師として本当の母胎信仰により牧師になり、韓国から18年前宣教に来られた。在日韓国・朝鮮人だけではなく、日本人にも伝道する意思をもって行ってきた。彼女はリべラル、人種や民族を越えて宣教をしてきている。しかし教団や国籍などハードルは高く多いという。彼女は宣教において私の存在を高く評価してくれた。私のタラントが活かされるように考えているからであるという。牧師から教授が認められたのは広島でアメリカから来られた蔡牧師以来のことであった。説教と講義は異なることを牧師に説教(笑)をした。
 

 

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