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松原孝俊氏講演

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ワンアジア財団支援講座10回目 松原孝俊「東アジアの国際交易ネットワーク」

場:東亜大学13号館202 時:2016年12月3日午後2時半から4時まで

私の松原孝俊退職記念エッセイに寄稿した拙稿

啓明大学校時代

人生には多くの人間関係があります。偶然に何度も会う人もいれば一度限りの出会いでも忘れられない人もいます。韓国語で오다가다 만난 사람(偶然に会った人)とは無縁、信用できない否定的なイメージがあります。しかし多くの人の縁はその偶然性によって始まるがそれは偶然ではないはずです。科学的、論理的に考えると確実な結果であると言えます。つまり偶然は必然なのです。それが松原孝俊教授との出会いでした。私は30代半ば、彼は27歳でした。

私は日本での留学生活を終え、馬山の慶南大学校に勤務。そして縁があって大邱の啓明大学校の日本学科へ移った時、学期初に二人の日本人に会いました。松原氏と門脇誠一(後に北海道東海大学教授)氏です。二人は日語日本文学科に所属しており、日本語教育の教員でした。私は日本学科の所属ではありましたが、私たちはほぼ毎日のように会いました。当時は毎日のように会い日本語で長く話をし、親しく付き合ったのです。私は日本留学をしても日本語が不十分であり、日本語の練習が伴ったものでした。丁度彼は学生たちに日本語を教える教員であったが私の日本語の先生、同僚、友人ともなっていたのです。

一回だけしか会わなかった人、今ではお互いに忘れてしまった人もいます。また、彼らが私を記憶していても私が憶えていない人もいると思われるし、またその逆もあろうと思います。恩恵を受けたとか、嫌な思い出のある人のことは記憶に残っているでしょう。当時の人間関係は一回性の関係、恒久性の関係と二分されます。

当時の日記を見るとそこでいろいろな人との出会いの縁が生まれ、たくさんの方々との交流が始まりました。私の日記には多くの方々の名前が散在しています。特に松原氏の名前が多くでてきます。松原氏は1979年3月~1981年3月まで2年間私の日記に点轍するように記されています。その間はほんとに親しくおつきあいしたものです。

1979年3月25日の日曜日に日本から友人の末成道男氏がわが家を訪ねて来られた時、松原氏と門脇氏も同席するようにしました。また数日後の30日に松原氏のご家族が私の研究室を訪問してくださいました。末成氏が帰国する4月4日松原氏が荷作り、駅まで一緒に見送りをしたことも書いてあります。

啓明大学校で6月22日(金)2時に松原氏の発表が終って皆で撮った記念写真は私の家内がシャッターを押しました。私は彼を韓国の日本学会、民俗学会、文化人類学会などに紹介、推薦しました。私の恩師の任晳宰、李杜鉉の両先生をはじめ多くの方を紹介し、親しくなりました。私と一緒にそれらの学会に参加することも多かったのです。校内の教授会の旅行の時の思い出は数々あり、親しく付き合って1981年2月26日、大邱で零下13度の寒さの中で山林という食堂で彼の送別会を夜遅くまで行いました。その後も、その縁は今も延々と続いております。

彼は韓国語も習いはじめ、慶尚道放言さえ駆使するようになり朝鮮半島の民俗文化研究-主に口頭伝承・宗教儀礼-、そして朝鮮通信使や対馬・釜山和館などでの日韓文化交流史まで広げて韓国研究者として定評を得るようになりました。そして韓国研究センター所長になりその力を速やかに発揮するようになりました。私がその九州大学韓国研究センターで集中講義をしたのは長い友情の証でもありました。その他論文審査にも参加させていただきました。

彼は東亜大学大学院博士審査にも加わってくださいました。さらに東アジア文化研究所の開所式で祝辞を述べてくださり、博士論文審査などに来てくださるなど交流は太いパイプでつながっています。

常に情熱的で若さいっぱいの彼が定年とは信じられない気持ちです。20代の彼のイメージがあまりにも強く残っているからでしょうか。あるいはそれは私自身が年を感じても人の加齢には鈍感なのかもしれません。彼は昔話の研究から国際化へと広げ、深まり、韓国研究センターの研究所の設立と育成に大きい業績を残して定年になりますが、続けてお互いに協力関係は続くと思います。

彼とは偶然のように会いましたが必然の出会いだったのです。その縁は40年近く脈々とつながり磨かれてきたのです。多くの縁が一回きりになり、絶縁となった人も多い中われわれの友情は長く続いてきたのです。これは記念すべきことです。ここで定年を祝い、業績を賛美し、筆を置きます。

2016年1月17日


上京

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 今、朝の5時過ぎ、これから新幹線で東京へ一人旅になる。手術以来家内が同行しないで一人での出張は初めてのこと不安もある。家内は午後2時半から4時まで行われるワンアジア財団支援講座10回目松原孝俊先生の「東アジアの国際交易ネットワーク」に助力しなければならない。講義の司会は同僚の西沢先生にお願いしている。東京の東洋大学では科研4年間の総合結果の研究会である。「帝国日本における人とモノの移動に関する文化人類学的研究」という大きいプロジェックトである。その4年間の総合討論のパネルディスカントでたった10分ほどの時間を話すために上京する。コメントなどで話すことが多い私に初めて正式に発表時間をいただき、ありがたくちょっと長目のレジュメを用意した。評価と反省をすべきある。
 私が代表とする3年間の科研は研究費は使い切ってしまったが先週韓国調査に行ってきた。自分の研究と科研などのプロジェックトの研究とはどう照合すべきか、考えている。表題の問題意識を持って研究メンバーたちは問題に集中すべきであろう。日本に来てこのような研究費に恵まれて研究を続けていることは感謝である。私の研究は日本の植民地から世界へ広がっていった。フランス植民地圏とイギリス植民地圏の対照点、先進国となった旧イギリス植民地の南アフリカ共和国では多くのことを考えた。日本の植民地でも南北の対照点がある。どう評価すべきであろうか。

*写真は2年前台湾国立博物館の後藤新平像


 
 

 

眠れない夜

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 私は健康になったと自信を持つようになった。家で朝食抜きに出発したので食事のフルコースは服薬である。しかし、薬をカバンに入れず新幹線に乗った。薬を持たないことに気が付き連絡。家内が緊急で送ってくれたが明日の午前中に届くと言う。不安。1日15個の薬を飲まないことでどんな変化が起こるか気になり始めた。一気に患者に戻った気持ちである。
 東洋大学では多くの同志、友人、後輩に囲まれて楽しかった。乾杯音頭はしないと宣言してしばらく、研究代表の植野先生に指名され気持ちよく大きい声で乾杯を叫んだ。伊藤亜人氏とは1970年に初めて会った話、清水昭俊氏は恩師の李杜鉉先生とのつながり、私は小さい縁でも大事にする。ホテルに戻ってから体の調子がよくない。なぜであろうか。家内は病院で10年勤続で表彰されたという電話、それに水をかけるような話はやめた。おそらく薬を飲んでないこと、否、それより心理的であると自我診断、本当に患者になるかと心配である。研究会は今日が本番であるがうまく乗り超えられるか心配である。

総合討論

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 昨日本欄で薬を忘れてきて心配と書いて多くの読者から慰労の言葉をいただいて大変嬉しく恐縮、会場でも多くの方々から挨拶代わりにその言葉があった。昼時間にホテルに戻り家内が送った薬を無事に入手服用。このたびは特別配慮で会場で弁当を食べながら全日程のすべてをもれなく聞くことができた。健康に自信を戻した。会場には鄭大均氏、中生勝美氏が座っている。中生氏は元共同研究協力者であって私が以前から気になっていたことを言葉にした。彼は「先生は先生です」という返事、私は感謝した。
 東洋大学125周年記念館の最高層の教室で植民地と近代化、近接地植民地などを植野弘子氏の司会で総合討論があった。これで4年間の研究プロジェクトの終止符を打った。このシンポは東洋大東アジア研究所の主催で行い、その所長の松本誠一氏と鄭大均氏と3人で夕食、旧縁、古い話。鄭大均氏からは私の呼び掛けにより学会へという転機が作られたという感謝の言葉があった。松本氏とは1980年代初めころに会ったこと、フェースブックで私の手術や回復過程をよく読んでいただき、友情が流れたことを感じた。二人との出会いはただの平凡な出会いではなかった。

映画作家北村皆雄氏のお見舞い

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 運動のために歩くのが良いと思い都内を歩いた。東大の前を横断、第一書房へ立ち寄り、地下鉄で上下5キロ超えるカバンを持って歩いた。高い階段、長い連結道を歩いた。映画作家北村皆雄氏のお見舞い、元気であったので挨拶と打ち合わせもした。昨日の東京はぽかぽか。夏日のようであり、歩くのはは軽い運動とは思えない、私には重労働であった。新幹線に乗るために立っていると車両が着き、薄いピンクのユニフォームの掃除の女性たちが並んで去る客へお辞儀、車内に入り掃き、拭き、椅子を回し、カーバー掛け、点検など10分内で終えてから確認してお辞儀をして次の仕事へ行く場面をみて、感謝の気持ちで乗った。日本文化はまだ健全である。アジアはまだ日本から学ぶべきものが多いと思い、乗車ノートパソコンを開いて日記を書いた。富士山が窓から見えた。美しい。誰かが美術的には美しくないと言っていた。結局夜帰宅してノックダウンの東京の日程であった。
 旧聞になった山口新聞の月曜日コラムに書いた「韓流」を目にした。

                  「韓流」
「冬のソナタ」によって悪かった日韓関係が最高潮になり、大衆文化の流行として「韓流」は良いイメージをもっていた。韓国のテレビドラマに限らず映画、音楽のKポップ、キムチ料理、ハングルや文学などがブームになった。韓国は国威発揚の契機とし、さまざまな「韓流」ビジネスを海外へ拡撒した。それは日本だけではなく、中国や東南アジアまで広く流れていた。しかし「韓ドラ」という言葉はいつの間にか激変し、今では「韓ドラ」は否定的なイメージが強い。中国では韓流を締め出す「限韓令」を全面適用すると聞いた。韓流ドラマの放送や韓流スターの出演を禁止するという。日本では2年前に放送されていた「密会」が朴槿恵疑惑に関連する韓流ドラマだといわれる。
日韓関係が悪くても良い友好関係を保つためには民間レベルでの親善活動が常に行われるべきである。山口は総理大臣の多産県だと言われており、東京志向に感じられる。大陸向けには積極的ではない。下関は釜山とは姉妹都市であり、大会や祭りなどイベント的行事はあっても地道な活動は少ない。私は日韓親善協会と協力して「楽しい韓国文化論」を行っている。来年6年目を迎える。今東京のワンアジア財団から支援をうけ、公開講座「アジア共同体」15週進行中、市内全大学の学生と市民に公開している。参加者が少ないのはとても残念である。
 

 

言論の自由がないのか、臆病なのか。

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ある法学徒が久しぶりに 福岡から訪ねてきて慰安婦の話を求めた。何故か。韓国側からの慰安婦という話題ではなく、日本内での反政府的な左翼グループが議論するという。私が知っている限りでは慰安婦問題の発端は日本であり、それが韓国や中国へ刺激を与えたということであり、別に新しい話でもないと、あまり反応することもなかった。それは日韓関係の上、最も相反するところである。韓国では民族や国家に反する意見を出すのは難しく、反面日本では天皇制などを除いてある程度言論の自由があるといえる。
 しかし日本の中でもそのくらい自由さえ亨することができない人が多い。目下いたるところで日本「帝国の植民地」云々と言いながら発表する人が多いが、1990年以前は植民地の話はタブー視され、このような状況ではなかった。時々私の意見に自慢話と非難する読者もいるが本当の自慢話をするのを許してほしい。日本のトヨタ財団の支援を受けて1990年反日の韓国で私はそのタブーを破って朝鮮総督府の調査資料『朝鮮の風水』を翻訳出版し、非難された。その後ポジティブな影響も大きかった。それについては田中雅一氏、山路勝彦氏との鼎談でも語ったのは既に知られている。先週東京で帝国における人の移動の研究会で私が近接植民地の支配では支配しやすい点と感情的対立があり、肯定否定の両面があると言い出し、賛同のような発言を求めたが乗ってくれない。言論の自由がないのか、臆病なのか。

*写真2011年4月18日

「命」「断髪」

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 講義、研究会、講座などが続いているが、来年の予定も埋めていく。新年1月までワンアジア財団支援講座、3月には地元の楽座で講演と松本で行われる日本映像民俗学の年大会で作家柳美里氏との対談、5月には町裏塾で「雀様が語る日本」などが予定されている。負担とは全く感じず人との出会いを楽しんている。昨日文化人類学講義では出生率と男女差別が儒教に影響されていることを議論した。中国の女子学生は全員4人が生まれ変わるとしても女で生まれたいというが韓国の女子学生2人は男として生まれたいという。男性中心社会で出生率さえ調節されていること、私が岩波書店『絆』に寄稿した妊娠中絶の問題に触れた。それと関連して、柳美里氏の問題作の原作である映画「命」とBBC作「China's Child」を紹介した。
 「命」は韓国風の泣かせる映画だと思ったが、本当に泣きそうであった。不倫相手の子を身ごもったとわかった主人公は、同時に元恋人が癌であると知り、辛い現実が描かれている。柳氏は「魂」の問題にも触れた。今東北地方でシャーマニズムなど民間信仰を調べていると北村氏は言っておられた。彼女は面識はない。楽しく対談をしたい。
 今週は県立広島大学名誉教授原田環氏が「断髪」を持って東アジアの近代化を語る。古くは侍など禿げ頭が流行した国の日本で、今は前髪をたらしているのが一般化されている変化に質問したいとおもっている。文化評論家でもある本学の清永氏も登壇してコメントをする。面白そう。多くの市民にも参加してほしい。

 原田環(県立広島大学名誉教授)

「亜細亜3国(日本、朝鮮、清)の近代化の相互比較ー断髪ー
 2016.12.10 14:30~16:00 東亜大学13号館202
 

ギャンブルと娯楽

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 大学の創立者が私を待っておられた。彼は謙遜と質素な方で今は実務からは引退しても毎日出勤する。私は十年前誘われ、この大学に勤めるようになり、古い人間関係、時々親しく談話することがある。先日私からワンアジア財団支援講座と創立記念講演をお願いし、して下さったことに感謝のご挨拶を述べた。本当の面白い話をしたいというので次の機会にぜひお願いした。商業的な事業の対象としては大学設立が適切であるかは疑問であり、その教育への関心を聞いたことを思い出してその話に移り、次の講演に期待することにした。
 昨日は研究所において本を分類しながら考えた。研究所は私の研究室でもあり、そこにいるのは幸せである。私は研究所、所長室、研究室の3か所を使って講義と研究を行っている。中国の宮さんがそれを知って私を贅沢だと目を大きくして驚いた。彼女は私がする彼女のための英語の原書講読を喜び私も楽しんでいる。彼女の英語力は高く、読書時間は私も楽しい。老後の趣味が読書、研究であると実感しなら昨日は普通の言葉の日常会話と記録した言葉の差異に関する文について学ぶ時間であった。読書会では田辺氏がカジノなどギャンブル制約の法律を解除する自民党の政策に反対だと語り、私はギャンブルと娯楽の差、宝くじとは等々、延々と人類学的な話が続いた。
 


朴クネ大統領弾劾

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原田環(県立広島大学名誉教授)「亜細亜3国(日本、朝鮮、清)の近代化の相互比較ー断髪ー 清永修全(東亜大学准教授) 大正期生活改善運動と新しいヘア・スタイル

    2016.12.10 14:30~16:00 東亜大学13号館202

上記は本日の公開講座のお知らせである。

 昨日韓国国会で朴クネ大統領が弾劾された。生中継を見た。決定の瞬間歡呼する風景を見て心が重くなった。私は韓国初の女性大統領に大きく期待、それが外れ、日韓関係についての政策などで失望していた。しかし弾劾については否定的である。それは民主化過程を生きてきたものとして、民主化が独裁化を呼んだ歴史を知っているからである。
 弾劾されたという放送中、下関毎日新聞反田氏から電話、韓国の不安、私も不安であることを語った。今朝の西部版27ページに引用された。

 下関「残念」「不安」~在日韓国人が多い山口県下関市でも弾劾訴追案可決に動揺が走った。韓国出身で日本に住んで28年になる下関市のキムチ店経営、広川順運さんは実家が朴大統領の地元の近く。「反政府運動が一気に盛り上がり、言えなかったことも多いのではないか。(弾劾に)心を痛めている。指導力が足りなかったか、周囲に巻き込まれたのか分からないが期待していたので残念」と同情を寄せた。
 東亜大東アジア文化研究所(下関市)で日韓関係の研究を続ける崔吉城所長は「市民の不満が民意という形で爆発し、国会議員もそれに応じた。しかしこのようなものが本当に民主主義なのだろうか。今後、韓国内がどのような形でまとまっていくのか非常に不安を覚える」と話す。日韓関係について「野党が国内をまとめるために反日に向かう危険がある。今後の日韓関係は不透明さを増すだろう」と懸念を示した。(反田昌平)

 

「アジアの近代化と断髪」

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 土曜日毎の公開講座,昨日が11回目になり、残り4回、受講生たちと市民も慣れお馴染みになり緊張感が少ない。私は8時ころ大学の研究所に着き、本棚を調整しながら本を分類し、立ち読み、準備員たちと弁当を食べた時は既に十分疲れてしまった。いつも疲れてから本場に臨むようになる。原田環氏(県立広島大学名誉教授)がご自身の研究の「アジアの近代化と断髪」について簡単明瞭、分かりやすく、面白く、短く、話された。日本発信の近代化とファッションの話であった。清の辮髪、朝鮮のサント―(總角),日本の侍の丁髷などを比較的に示した。清と朝鮮は既婚と未婚のヘアースタイルが対照的に反対であった。ロシアなど髭のステータス、仏教者の丸坊主、つまりヘアースタイルの自由化、ユニセックスにおける平等性など議論できた。
 コメンデーターとして登壇した清永修全(東亜大学准教授)氏は「大正期生活改善運動と新しいヘア・スタイル」について紹介した。1920年代では生活改善運動と関連してモダンガールのファッションが登場する話、フロアーから櫛田宏冶氏は下関が床屋の発祥地であることから古くから大陸との関係があると説明した。話は熱くなり、10人ほどが研究室に移り話が続いた。ァッションと化粧、韓国の外見主義と美容整形などが話題になり盛り上がった。

「早く早く빨리빨리現象」

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 韓国現象をどう見るか、大概日韓の相反する意見がある。昨夜韓国在住の産経新聞の黒田勝弘氏はテレビで数十万から百万単位の群衆の集まりはデモではない「民主化デモではない祭りだ」「群集心理だ」と言った。人口の少ない国においてなぜ多くの群衆が集まるのか、否、だからそうなりやすい。弾劾が決まってもまだ祭りは終わっていない。沖縄現象とも似ている。昨日教会で金明均牧師は説教の冒頭でこの韓国現象を「早く早く빨리빨리現象」と指摘した。彼の説教は深い内容で、明快、短く、ベストであった。礼拝後に具長老が韓国現象を心配し、私の意見(新聞へのコメント)に賛同した。私は日本より韓国が民主化は先進したと思っていたが今度の韓国現象には大いに失望している。
 礼拝後立ち寄った百貨店のフロアーではクリスマスツリーと子ともたちのダンスの発表会で賑わっていた。福祉フェスタにも顔を出した。受け付けで曽田県議員、田辺市議員、学生たちや知人にも会った。家内と一緒に抽選に投函した私が2等にあたった幸運。ギャンブル、カジノが国会で議論していることに私は一生ギャンブルをしない、宝くじも買ったことがないと、ある新聞コラムに送稿したばかり。なぜかこの当たりの幸運に戸惑っている。
 

 

下関市議会傍聴

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 暇だと言われるかも知れないが下関市議会の質疑応答を傍聴した。議席には中尾市長をはじめ顔見知りの方が数名、傍聴席にも知っている顔が多かった。田辺よし子議員は下関市指定文化財旧四建ドックを埋め、駐車場とする工事について、それが文化財保護法と下関市文化財保護条例に照らして適正かを問うた。それについて総務や教育の部長が答えた。
 私は若い時韓国の文化財専門委員をしたことがあり、文化財として指定する価値があるかないかに注目して傾聴した。すでに市の文化財に指定されたので管理保護の行政の問題である。文化財の埋め戻しの例はないわけではないが、現存のまま観光化するという進言に聞こえた。終わって庁内で傍聴した知り合いたちが会って議論した。諮問機関である文化財諮問委員や教育部長は市長に任命されることから市長に反するか客観的な発言ができないことを知った。
 夕方地域のニュースで家内が務めている病院で穴があいた点滴が見つかったことで、休務だった家内の電話のベルが多く鳴った。夜には病院長らが説明する映像が映った。

「農村振興政策だった大麻栽培」(東洋経済日報に寄稿文2016.12.9)

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「農村振興政策だった大麻栽培」(東洋経済日報に寄稿文2016.12.9)    日本では今、有名な歌手などの麻薬問題が大きく話題になっている。私は大麻が麻薬であるということが気になった。なぜなら私の母も栽培していたことがあったからである。戦前日本の植民地政策、おそらく農村振興運動の一環として奨励されたものであろう。戦前の日本の尾道などでも大麻を多く作っていたという。母が大麻を作ったのもそのようなものであったのだろうか。私は母が蚕を供出していたことも覚えている。 先日韓国全羅南道和順郡道荘里への調査旅行で訪ねた村でセマウル運動の時の記録文書や道具などを陳列しているのをみて懐かしく思った。その村は綿花名生産地であったと聞いて、私はその時も母を思い出した。母は野菜や雑穀以外に綿花と大麻、桑の木などを栽培し、木綿、麻、絹の織物をした。綿花と大麻の農作と織物は朝鮮戦争の時まで続けた。母は綿花の種を抜き取り、糸を作り、部屋に設置された織物機械で織っていた。足と腕が動き規則的な音となった。大麻で麻布の生地を作った。母は私に織った木綿と麻でバジチョゴリを作ってくれた。大麻の葉は乾燥させて風邪薬にする程度の薬効があることは知っていた。しかし麻薬の成分があることは知らなかった。 日本では許可を得て栽培すべきであり、大麻を服用して中毒になって捕まったニュースもあった。しかし私には大麻はただ懐かしい物のように感じる。当時私が生まれた故郷では大麻が危険な薬物とは認識されていなかった。アヘンの花も楊貴妃の花として栽培した。織物用や鑑賞用の花として栽培したがそれが麻薬という危険物とは全く知らなかった。 サハリンに住んでいる韓国人たちも大麻やアヘンを栽培していた。それは日常的に栽培して冬など風邪をひいた時、煎じて飲む程度の常備薬でもあった。サハリンから韓国へ集団帰国するある人は引っ越し荷物にそれを入れて発覚、その時飛行機に乗れず苦労したと聞いた。麻薬の基準は何だろうか。 私は10年ほど前タイの北山村町チェンライのアヘン産地として有名なアヘン三角地に調査旅行したことがある。アヘンや麻薬の文化を肯定的に観光資源としていた。町の骨董品屋ではアヘン吸入用道具が陳列されている。山岳民族にとっては効率の良い現金収入の手段であり、短時間で現金が得られるので麻薬や覚せい剤の売買に手を染めてしまう。厳しい取り締まりをうけ、逮捕者も続出している。外国人である私を警戒する人もいた。 台湾人はビンロウを噛む習慣がある。東南アジアでは広く麻薬性のある植物を噛んだり飲んだりしている。私はフィリピン、ミャンマー、インドネシアなどで麻薬性の植物を売っている現場、ベテルナツを噛んで口の中が真っ赤になっている人も見かけた。麻薬文化は生活に密着している。麻薬は麻酔、恍惚などを覚えてやめられない。恍惚は一時的に神秘的な感覚を持たせる。南米の多くのシャーマンたちは麻薬によって神がかる。フィリピンの大統領が麻薬の取締を厳しく行うことも十分理解できる。 「 농촌 진흥 정책 이었던 대마 재배 」 (동양 경제 일보에 기고 문장 2016.12.9)  일본에서는 현재, 유명가수 등의 마약 문제가 큰 화제가 되고 있다. 나는 대마초가 마약이라는 것이 마음에 걸렸다. 왜냐하면 나의 어머니도 재배하고 있었기 때문이다. 일본의 식민 정책, 아마 농촌진흥운동의 일환으로 장려된 것이라고 생각된다. 전쟁 전에는 일본 오노미치 등에서도 대마초를 많이 재배했다고 한다. 어머니가 삼을 재배한 것도 그런 것이었을 것이다. 나는 어머니가 누에를 공출하고 있었던 것도 기억한다.  얼마전 한국 전라남도 화순군 도장리를 방문한 적이 있다. 이 마을에는 새마을 운동에 대한 기록 문서 및 도구 등이 진열되어 있어 감동하였다. 그 마을은 목화 생산지로서도 유명했다는 말을 듣고, 나는 나의 어머니를 생각했다. 어머니는 야채와 잡곡 외에 면화와 삼 뽕나무를 재배 하고 면화, 대마의 섬유로 직물을 했다. 면화와 대마 경작 및 직물은 6.25때까지 계속했다. 어머니는 목화의 씨를 씨약로 빼고 실을 만들고, 방에 설치 된 베틀에 걸터앉아 다리와 팔로 무명 등을 짰다. 삼베 옷도 만들었다. 대마의 잎을 건조시켜 감기 약 정도의 약으로도 사용했다. 그러나 마약 성분이 있는 것은 몰랐다.  일본에서는 대마초를 복용 하여 중독 걸렸다는 뉴스 있었다. 그러나 나는 대마는 단지 그리운 것일 뿐이다. 그 당시 내가 태어난 고향에서는 대마초가 위험한 약물로 인식되지 않았다. 아편 꽃도 楊貴妃 꽃으로 재배했다. 꽃으로 감상했다. 그것이 마약이라는 것은 전혀 몰랐다. 사할린에 사는 동포들도 마리화나와 아편을 재배 하고 있었다. 감기 때 달여 마시는 정도 상비약이기도 했다. 그런데 그들이 이사 짐에 넣고 비행기에 탈 수 없이 고생했다고 들었다. 약품의 기준은 무엇 일까?  나는 10 년 전 태국 북부 산 마을 도시 치앙라이 아편 삼각지를 여행을 한 적이 있다. 아편 및 아편의 문화를 긍정적으로 관광 자원으로 사용하고 있었다. 골동품 가게에서는 아편 흡입 용 도구가 진열 되어 있다. 산악 민족에게는 효율적인 현금 소득의 방법이며, 짧은 시간 안에 현금이 파생되기 때문에 마약이나 각성제 거래에 손을 대기 쉽게 된다. 엄격한 통제를 받아, 체포 자도 속출했다. 나를 경계 하는 사람도 있었다.  대만 사람들은 빈랑을 씹는 습관이 있다. 동남 아시아에는 널리 마약성 식물을 씹거 나 마시고 있다. 나는 필리핀, 미얀마, 인도네시아 등에서 마약성 식물을 판매하는 현장, 베델을 씹어 입 안이 새 빨갛게 되어 있는 사람도 볼 수 있었다. 마약 문화가 생활에 밀착되어 있다. 아편은 무감각, 넋을 빠지게 한다. 황홀감은 신비한 느낌을 갖게 한다. 남미의 많은 무당들이 마약에 의해 신이 내리는 것이 보통이다. 필리핀 대통령이 마약 단속을 강화하는 것도 충분히 이해할 수 있다.

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「私が生まれた時父親は怒った」

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 今学期の文化人類学講義では性、結婚、家族がテーマである。まず前回の講義の学生たちのコメントを以て始まる。アンケート調査によれば日本人の男性の回答と女性の回答で著しく異なっている。男性は一貫して同じ男に生まれてきたいとする者が9割程度を占めているのに対して、女性は、かつては男に生まれたいとする者が6割以上の多数派であったのがこの約50年の間に女に生まれたいとする者が7割以上の多数派を占めるように変化したという。生まれ変わっても女、男という話に中国からの女子留学生は二男二女の4人の兄弟姉妹の末娘だと自己紹介をしてから「私が生まれた時父親は怒った」と説明した(笑)。
 父系社会の特徴を説明するために私は1976年「朝鮮学報」に発表した「捨姫公主神話分析」を以て説明を加えた。王様の子は全部娘、息子を願っていたので7番目に産まれた娘は生まれた時捨てられる、その娘をバリ(捨てられる)という。長い神話のストリーを紹介した。末娘の逆語の「長男」中心社会への理解を願っていた。しかし父系社会でありながら親孝行の「孝心」をもっているのは娘であるという神話の趣旨の理解も求めた。静かな私の社会思想運動といえる。慰安婦について本を書いた日本人の著者に講演を頼むつもりで電話をしたら私の姿勢とは異なって「自分は慰安婦を以て日本政府と闘う社会運動者だ」ということで断られた。私こそ社会運動者だと思っていたが彼女には負けてしまった(笑)。

タイトル 韓国巫俗における死霊祭と霊魂観--捨姫公主神話の構造分析 著者 崔 吉城 出版年 1976-01 注記 記事分類: 社会・労働--民俗・風習 対象利用者 一般 資料の種別 記事・論文 掲載誌情報(ISSN形式) 05779766 掲載誌情報(ISSNL形式) 05779766 掲載誌情報(URI形式) http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000015216-00 掲載誌名 朝鮮学報 / 朝鮮学会 編 掲載通号 78 掲載ページ p119~144


 
 
 

 


幸福の木の花が咲いた

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 昨日下関でも霰が降っても読書会全員6人参加、私の福祉フェスタでのくじ引き2等当選自祝ケーキを一緒に食べた。今朝も寒い。しかし室内に入れている幸福の木の花が昨夜から咲いて幸せな香りが充満している。赤いバラもつぼんでいる。明日2016年12月17日ワンアジア財団支援講座は大連理工大学の孫蓮花氏が担当する。「ワンアジア社会、言語とアジア共同体の構築に向かって―日中韓の多言語景観を中心に―」という題で講義、言語学者山田寛人氏のコメントで議論する。内容は次の通りである。
 道路標識、広告看板、地名表示、店名表示、官庁の標識などに表れる国の言語政策、言語意識、言語接触、言語受容などを検討する。日韓の店名、広告看板、チラシなどにおいては、日本語・ハングルを基本としつつ、英語、中国語、韓国語/日本語(韓国では日本語表示、日本では韓国語表示)となっている。
 公共施設の案内、交通機関の地名表示、緊急・災害時の案内、地域の文化・商業施設マップなどにおいては、日本は外国人のための行政が著しいのに対して、韓国は動きがまだ鈍い。中国の大連では外国語表示(日本語表示)について全般的に好意的であり、肯定的である。しかし公的表示において、北京オリンピックを迎え中英表示の動きはあったが、全国範囲には広がっていない。

春海保健大学

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 最近研究室で会議や談話をすることが多く、書籍や本棚などを研究所へ移している。一人で本棚を少しずつ移動させ、エレベーターに載せて、また移動させて行く途中、きつくて立ち往生。その時掃除担当の女性が手伝ってくださった。昨日はそれを研究所に定置し、本を分類しながら立ち読みして午前中を楽しんでだ。それは仕事か、労働か、遊びか、不分明である。私は1万数千冊の書斎を持っていると満足している。
 午後は韓国・春海保健大学から9人の学生と引率教員がわが大学を訪問して交流会が行われ参加した。数年前姉妹提携の時から私が迎え役の一員として勤めてきた。昨日は金熙珍総長からお土産もいただいてお返しもした。情の交流である。本学の医療工学部の教員全員が参加して学生たちの救急医療の実現を律動で美しく、面白く、披露して大きい拍手があがった。教育がきちんとなされていることを目で確かめた。宮さんとの原書購読は楽しい。寒い冬はすぐ暗くなりライトを照らしながら家内の運転で帰宅した。

孫蓮花氏と山田寛人氏

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 私は8回ほど職場を移動しながら教授をしてきたが広島大学時代は教育や研究に充実していたような気がする。そして今東亜大学ではより視野を広げて市民との交流も活発である。昨日は広島時代を復元したような風景になった。ワンアジア財団支援講座12回目の講義は大連理工大学の孫蓮花氏と山口大学非常勤講師の山田寛人氏、そして司会の私、3人そろって行った。感慨無量であった。孫氏は社会言語学を専門として、道路標示、広告看板、地名表示、店名表示、官庁の標識などに注目して自分で撮った日中韓の写真をもって比較した。中国は少数民族が多く、公的に少数言語を以て表示するが外国人向けの表示はそれほど多く見られない、反面日本では外国人向けの表示が多いという。私は道路左右通行と表示板の統一を、そして朴ドンショク君は下関のように韓国人の往来の多い地域に韓国語が多いという地域性を指摘し、釜山のテキサス村、函館や新潟などにはロシア語の看板が登場したことも話題になった。  講義の後は私の研究室が小研究会のようになった。福岡から来られた李恵蘭牧師と李シュウジン氏の二人もニューフェースとして参加した。田辺氏の韓国での反日的な言語に関する質問で、私が外来語の浄化運動を上げた。割り箸に当たる中国語や韓国語はない。衛生箸という訳語はあっても外来語はない。話は衛生になり、鍋物を取り皿を使わず一緒に食べるのは非衛生だというところに牧師は人間関係の密接さを語った。私は極端に衛生ということを強調するならば握手、ハーグ、キスもできない。子供は生まれないと冗談交じりに語った。3次会は平家茶屋で懇親会、より縮小濃密になっていた。

クリスマス文化

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 昨日の礼拝は異変が起きた気分であった。朴米雄牧師が高い教壇から降りて説教をした。高い教壇を神秘的に守り信者の登壇を極力制限する今までの牧師とは違った。私は彼の謙遜さを感んじ、宗教革命者かと一瞬戸惑った。説教は彼自身が小学校4年ころ肺結核で死の不安と怖れの中でクリスマスを迎えた話を含む説教であった。私は自分の話を聞いているように感じ、彼に私もほぼ同じの体験をしていると話した。彼が主催するところで講演か証しを頼まれた。私の教会歴は長くてもこのような請託は初めてである。嬉しいと答えた。しかし語り部になってはいけないと戒める。
 今週はクリスマス礼拝であり、教壇に生け花をささげる意思を表明したら意外にも受け入れられなかった。メリークリスマスの祝いも制限される。理由がありそうである。朴牧師が言うには牧師達は教会に教授が出席すると一歩引く姿勢をすると正直に言っておられた。聖書にはただの識者、博識者に対して批判的であり、信仰を求めている。私が識者として礼拝に参加するならば牧師を認めることはなかなか難しい。善なる牧会者として支えてきた。世俗的なこととは関係なく、私の信仰を守るために席を守っている。

 今朝の山口新聞コラム

クリスマスが近づいている。街はイルミネーションのネオンやサンタクロース、クリスマスキャロルなど豪華な飾りやプレゼント用品が溢れている。まるで日本がクリスチャン国家のようにクリスチャン文化を発信する。私がよく目にする通りには教会とカギ屋が並んでいるがカギ屋の装飾ネオンが教会より豪華である。もちろんホテルや百貨店の飾りや商品の宣伝はあたかも日本がクリスチャン文化の中心であるかのように感じさせ、私は錯覚と混乱を覚える。

日本はキリスト教国ではない。普段はキリスト教の意識はなく、むしろキリスト教には否定的な印象を持つ人が多い国である。日本の宗教においてキリスト教信者総数は1%以下である。それに比べて隣国の韓国では30%弱といわれている。

日本ではカソリック教会様式の結婚式場は見事である。またキリスト教の遺産を世界文化として登録しようとする。キリスト教国家ではないのに山口市が「12月、山口市は“クリスマス市”になる」と宣言した。

暗黒の社会に光として現れ、人類愛を訴え教え、宣教して歩いて、殺されたイエスを記念するクリスマスである。祈りと礼拝の晩である信仰は意識されず、本質抜きの虚構の偽クリスチャン文化のように感じる。イエスの愛はただのクレージーラブではない。信、望、愛の意味を考えてほしい。

ロナルド選手

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 昨日の話題には韓国の崔シュンシルの裁判の生中継、先日東洋大学で行われたシンポジウムの討論が頭に浮かんだが非難、疑問を起こしやすいと思う。前日のFIFAサッカーの試合は楽しく見た。日本が負けたその勝者のロナルド選手が日本で人気があることが新鮮だと感じた。もちろん私も彼のボール、ドロウイング、キック、表情などが素晴らしいと感じた。ただ彼への称賛だけではない。彼を好きだという日本人サッカーファンたちが印象的である。国籍、民族を問わず健全なスポーツ精神を私は評価する。日韓のスポーツ試合であればどうであろう。特に韓国で日本人選手が好きだと言われるだろうか。愛国心とは何だろう。スポーツ精神とは何だろうか。
 


 

 

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