窓から見える風景
東京から着任した記者
激しい雨の音、避難指示や避難勧告の音が一気に春から脱皮したような昨日、私は研究所で楽しく談笑をしていた。東京の新聞デスク全国版で活躍されていた方が下関へ一線記者として赴任された女性と長らく話をした。彼女は私たち夫婦に対して予備知識を持っておられた。私は国境の港文化について、下関、石垣島、稚内など船による小規模の国境貿易などを強調した。流域を転々とするだけではなく、彼女を通して絆がつながり、縁が広がってほしい。
波乱万丈な人生
韓国大統領候補のテレビ討論会
杖文化
大学の近くの友人が経営する介護関係の会社「ひまわり」に寄った。中国、台湾、韓国との貿易もしており盛業中である。多くの店が廃れていっても病院や介護関係は健全である。穴見社長は意気揚々と発展ぶりを語ってくれた。同行した中国からの留学生の林楽青氏はこれから中国との貿易展望を語った。それに社長は夢膨らむ話が大きくなると夫人が謙虚なことばで修正する。進歩と保守の夫婦のイメージが面白い。韓国からオムツを輸入し、台湾へ杖を輸出している。最近中国の富裕層が10万円もする高級な杖を買って行かれたという。お土産として高級、高額のものが人気があるという。杖は高齢者向けのプレゼント用として贅沢でお洒落な商品として人気があるというが、韓国人には杖は障碍者のイメージが強く、それほど好まれない。しかし、必要とする方にプレゼントをしたときはとても喜ばれた。杖の文化も異なる。
読売新聞から取材を受けた
朝鮮半島の南北関係について読売新聞から取材を受けた。話題は朝鮮半島の緊張感である。今、世界、日本に溢れている緊張感が、北が「主敵」と言っている韓国人にはないという滑稽な状況である。同席した韓国からのお客様も韓国人は戦争という言葉に慣れているせいか、戦争を予想しないと返事が返ってきた。ソウルと平壌は200キロ、数分の内の爆撃が可能な話が長く続いた。アメリカは攻撃(戦争)に強くてもテロには弱い。攻撃の目標を武器とするアメリカと人を目標とする北朝鮮のテロとは嚙み合わない虐殺になり、悲惨なことになるだろう。
長府庭園
説教と講義の差
久しぶりに礼拝に出席した。宇部教会の韓国出身の崔栄信牧師の説教は「復活信仰」であった。説教では神、聖書が最も重要であり、寄りところであり、権威と主張が中心である。説教と講義の差を感じた。以前は講義も説教のように一方的であったがかなり進歩し交流的になった。私の講義もかなり変わった。全受講生のコメントを読んで感想や修正の意見を書き、コメントを話しながら返すことから始まる。学期全体のシラバスを考慮しながら映像、パーワーポイントで説明、さらにみんなで討論する。楽しい。
「無敵の力がある」
昨日も家内と一緒に印刷所で仕事に夢中であった。今朝の今時間帯が戦争勃発の危機といわれる。朝からニュースに注意している。朝鮮人民軍の創設記念核実験が強行される可能性で緊張が高まっている。北の「無敵の力がある」という盲信はどこから来るのか。多くの韓国民は北朝鮮が如何に弱い国であるか知っているから大敵にはならないと思い、それほど怖がらない。ただ怖いのはアメリカの「戦争」に対して北朝鮮の「テロ」の反撃が怖い。私は大学生の時聞いた有名なハングル学者崔鉉培氏を思い出す。崔先生はハングルの「・」音をめぐる論争のために朝鮮戦争避難中の汽車の中でも論文を書いたという。ライバルの李崇寧先生から聞いた話である。私は戒めとしている。
コリアパッシング
昨日は韓国からお客様一行を迎えた。戦争への懸念は全く感じられず歓談しながらも私は北からの挑発があるのではないかと気にしたが無事、一応安心した。米国の警告が有効であっただろう。北が屈服した形になった。ケネディーのキューバ事態を思い出す。まずトランプ大統領に感謝すべきである。夜韓国の大統領候補たちの討論会を視聴した。画面上には同時にネットの投稿の落書きや悪口などが流れ、民意として表れた。やはり軍事問題にはサード配置が問題とされ、韓米戦時作戦統制権が話題になり、コリアパッシングkorea passingつまり日中米などが朝鮮半島の軍事問題を論ずる時韓国を排除して行うことを意味する。自主権を持つ韓国が北朝鮮のように火遊びで「火の海」に対決をするのか、憂いがある。私は日本に住み日本語の不便さを感じ、韓国語で楽しむ。しかし、時には韓国語が聞き取れることによる不快さも感じている。つまり、韓国語が解らなければ聞くことが無い、聞きたくも無い不快なことも聞こえてくるのである。
「戦争の面白さと危険」
十五代沈壽官
フリーライター伊東順子氏から同人誌の『中くらいの友たち』を送っていただいた。伊東氏はフェイスブックの友から出会った方であり,すでに本欄で著書を紹介したことがある。本書は韓国暮らしの縁を持つ人たちの同人たちの文が載っている。私としては彼らの韓国体験を読み楽しむ一時である。途中驚く文に目がとまった。昨日読書会で紹介し議論した。十五代沈壽官氏の「1990年暮れのこと」である。
弘益大学大学院受験の為ソウルにいた
院長面接は何事もなく終え、引き続き総長との面談に臨んだ。
「君がここで学ぶ2年の間に、400年の日本の垢を洗い流し、韓国の魂を腹に入れてほしい」
僕は、失意の中で意を決して総長に告げた。「私はこの大学に入学しません。従ってマスコミの取材も受けません」。
そう告げると椅子をたち部屋を出た。
短気だということか、英雄談か、ハンマーで殴られたようなショッキングな節である。韓国のメディアには沈壽官は誇りの朝鮮人後裔、「名誉総領事」として韓民族の民族主義の象徴的な存在と盲信している。しかし日本人は沈壽官は全く純粋な日本人であると信じている。渡来人は皆韓国人あるいは朝鮮人と思うべきでなのか。ある韓国人たちは天皇を含め日本人は朝鮮人であると思っている。民族をはるかに超えている彼に総長の言葉はいかに幼稚な言葉であろうか。
『マイカー人生』
最近いただいた本の中には著名な民話研究者、私とは面識のないフェースブック友などからのものがある。昨日、親しさをもっている島根大学名誉教授酒井董美先生からの『マイカー人生』が届いた。なめらかな文章、私の日本語読本にもなりそうである。80の人生、どう変わってきていらっしゃるかに注目して読んだ。PCをこなす、年賀状を止めるなどの項目が並んでいる。私とは年齢的にも近接しており、関心事が多い。私とは共通点が多いが対照的なことがある。先生は徹底的に地元を生きる人であり、それに比して私は放浪者的であるといえる。
先生の傘寿(80歳1935年生)の話に目が止まった。去年私の友人が80歳になり傘寿記念会を準備のために仲間と相談したが、皆が曰く、今は長生きの時代だから大きくお祝いするのは88歳に延期することとなった。本人は言った。88歳まで長生きすることへの励ましの言葉は感謝であるが、その時には祝ってくれる人も老齢になり祝う力がなくなるだろうとちょっと残念そうであった。
音痴が名曲を鑑賞
「昭和の日」、連休の始まりの日とされる昨日、チャリティコンサートを鑑賞した。東京芸大出のソプラノの松原典子、ヴァイオリンの漆原直美、ピアノの穴見めぐみ の3氏のコンサートでは楽しみ、幸せな時間であった。ホールは音声空鳴など音響が良い。一曲も歌えない者としてこのような高級な音楽を楽しめるようになったのはどういうことだろう。田舎ではシャーマンの歌や民謡しか知らない私がソウルに転学して、古典音楽を知り、ショックであった。田舎で聞いてきた歌に偏見が生まれた。単調なメロディと歌詞中心の歌を低級のものと思い、歌詞を詠むような歌謡曲などを無視するようになった。高校と大学では名曲に関して熱心に勉強した。そして私は一曲も歌えない音痴になった。昨日はほぼ歌詞を脱した名曲の時間であった。音痴が名曲を鑑賞したのである。
週刊誌大活躍時代
昨日トランプ大統領就任100日、私は生中継を聞いた。彼は支持者の集いで選挙時のように演説を行った。まだ選挙ムードに包まれている。96%が「支持したことを後悔していない」。一方、記者団の年次晩餐会には欠席、ニュースメディアが正直でない、真実を伝えないと非難した。メディアは歴代大統領の中で最低の支持率。政治とメディアの対立が鮮明である。特にニューヨークタイムズ、CNNとNBCなどと関係が悪い。日本ではどうであろう。天皇制などへの自粛、自制、妄言騒ぎなど言論不自由な国、「日刊」新聞は「日記」的である。テレビは娯楽ビデオ化されつつある。週刊誌大活躍時代になっている。
日本は花を愛する国
日本は花を愛する国といえる。それは花を多く植え、咲かせること、花を見ることを楽しむことを意味する。それを韓国で講演した時、怒って反発した老女研究者を思い出す。花を愛することは人間社会の普遍的なことであろう。しかし品種改良、植木、開花、鑑賞に至るまで様々な文化として定着など、愛する中身は一様ではない。献花など交換文化が定着しているロシアではその他の生け花などは欠如している。熱帯地方では自然の花は多くても必ずしも花を愛する文化が発展定着したとはいえない。私は季節替わりに足を延ばして散歩コースの一つ、下関園芸センターに寄った。無料でたくさんの花々を見ることが出来る。花の鑑賞とともに樹が成長したのを感じた。外にはブラジルの国花の黄色のイペーが目を引く。黄色の国花からサッカー選手のユニフォームを思い出した。
「地方創生」
昨日は新緑の5月の初め、晴天夏日の日和、我がマンションの近隣の赤間神宮で行われた安徳帝正装参拝を覗いてみた。市長らの参拝を見上げた。10年間欠かず見ているが観衆が激減。観光客が10年間で十分の一に減っているように寂しくなっている。観光に頼ることは難しい。他の町では一個の奇形の植物が観光客を10倍増にしたと喜んでいる。これは観光だけの話ではない。政府の「地方創生」という政策を言い出すと地方では古い田舎郷土愛や地元魂がタコツボ式に固まる傾向になる。地方自治体長は地元出身が最優先され、それも後援会の世襲によるものが多い。村、町などは疲弊している。国際関係に関してもそうであろう。
祭りのハイライト
昨日の本欄で正装参拝に参観者や観光客が激減したと経験的に書いたが、昨日行われた先帝祭ではその歴史上最多の人波であった。海峡での源平船合戦の壮観を我がマンションからみた。我が住まいの良いロケ―ションを自負した。私にとって祭りのハイライトはやはり上臈参拝道中八文字ステージであった。幸せな時であった。海辺の広場で豪華燦爛な宮中行列のようなものである。参拝か、ファッションかのような壮観、古典美の世界であった。厚い化粧と衣装によって仮装行列のようなものでもあった。傘を開かなかったのは残念。古い女性の美は衣装の美であったといえる。それがいつの間にか衣装を一枚つつ脱ぎ、裸に近くなっているのが今日である。ヌード民族を野蛮視してきていた現代人たちがヌード化している。その現象をどう見るのか。セクシーと美は関係がないとマリノウスキーがいうがヌードは美だけであろうか。
嘘つき癖
韓国の大統領選挙で投票が終わるまでは世論調査はしない。ある日本のコメンテターは韓国人の嘘つき癖のために世論調査は信用ならないという。アメリカやイギリスも投票前の世論調査が大外れであったのはまだ記憶に新しい。それでも世界的に権威あるギャラップ調査は信じるが韓国でのギャラップは信用ならないという。質問項目のメジャーをアメリカや日本のものをそのまま借用してはいけない。嘘探知的な要素を加味して作成しなければならないだろう。それは韓国人の嘘つきのパターンがあるからである。それは善意の嘘という言語生活の特徴と言える。韓ドラでは嘘つく場面を確認できる。また多くの韓国人は中国人が嘘つくという。否、中国の留学生呉勉勉さんは日本人がテレビなどで何を食べても「美味しい」と嘘をつくという。嘘つきバトル、私の異文化論を再考したい。
白山菊
長い連休が続いている。千葉から家内の姉が来て食卓が豊富、ガラスが透明になった。新しく案内するところもなく、ただ、家族のような連休の毎日である。我が夫婦の日常は変わりなくゲラの最終校正に夢中、その合間に、倉光氏の病院の塀のサクランボの季節であることを思い、SNSで一報。外出から帰宅したばかりと歓迎してくれた。韓国への一人旅だったというので驚いた。サクランボをとって食べ、野生の心になり楽しみを満喫する時であった。北朝鮮の緊迫の中の憲法記念日、緑の日と子供の日を合わせ、サクランボ、一気に祝う気持であった。食卓にはお姉さんと家内の料理が並んだ。ほぼ1年ぶりに作ってくれた韓国式のキムチとジャプチェ、そして韓国の山菜チュナムルは特味、懐かしい。白山菊というこの山菜はほぼ日本全域で見られる。シラヤマギクのなどといわれ、もちろん多く野生しているが、ほぼ食材にはせず、山菜として認識されていない。しかし韓国では代表的な山菜になっている。栄養、味、生産など食文化の開発はまだ遠い。