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Channel: 崔吉城との対話
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植え替え

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 観葉植物フェニックスロベレニー、20年ほど一度も植え替えもせず、以前FB友のseji Pak氏から指摘されてもそのままにしていたが、今度強風で台から落下。プラスチック製の鉢が壊れた。昨日二鉢に根分けして植え替えるのに2時間以上かかった。高齢の私には重労働だった。苦労か、楽しみか。苦労と享楽は一緒になると思った。スポーツ選手がそうであろう。負けて泣いた選手がまた続けるのはなぜだろう。単なる苦労ではないからであろう。ただ両者のバランスの問題であろう。今週から新学期が始まる。表面は苦労の始まりのようであるが、学生たちとの新鮮な出会いと成長、楽しみも多いと期待感いっぱいである。


画家金斗鉉

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 千葉県浦安市から有名な画家金斗鉉氏が来られた。1953年日本人を母として北朝鮮の咸興で生まれ巨済島に非難したという。映画「国際市場で逢いましょう」の主人公のような方である。9才には日本に来たことがあり、1971年から日本に住んでいる。広告代理店でグラフィックデザイナーを経てフリーランスイラストレーターとされている。李朝時代の風俗画「箕山風俗圖帖」などを思い出すが、中にシャーマンの絵が私を驚かせた。彼はクリスチャンとして宗教心を表現する技を持っているように感じた。『最新イラスト・カットの辞典』(主婦の友社)「絵が描けない人のためのワークショップ」に興味が湧いてくる。来年3月下関で展示会を予定しているので楽しみである。

非情な「日常」

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 大学の後期授業開始の日の「文化人類学」では重いイントロダクションになった。私の人生の4分の1しかならない学生たちにはどうしても人生論的になる傾向がある。昨日は猛読中の柳美里氏の高校生向け講演録のような小説『自殺』からであった。彼女と私は非学歴と学歴が対照的である。しかし学識の対照ではない。彼女は非学歴者ではありながら高学識者である。私は学歴社会の中心である大学で教授として学生に「非学歴」を主張することになるのか。彼女がイジメ、自殺の多い生徒たちに「自殺を自分の人生の中にプログラムすべきだということです」という。ショックな話である。非情な「日常」にがまんできず自殺した太宰治が殉教者だという。日常(文化)をどう生かすべきか教育の問題にぶつかる。来週からは月曜日には市民にも公開する「アジアの民族と国家」、土曜日には「楽しい韓国文化論」を行う。市民の参加を歓迎する。昨日9月20日付「長周新聞」に報道していただいた。
 

 

平和な心の国民

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 地方新聞の地域面を担当する記者からのメールがあった。解散選挙態勢に入るので他の取材は難しい。それを読んで私は解散が平地風波のように感じた。政治がこの小さい地方まで圧倒する影響があるのか。既成国会議員の任期を短縮すとか、国民に投票の機会を与えるとか、否定肯定の面がある。それより国民が政権を変えるほど民主革命的意識があるのか。人気投票のようないわばポピュリズム、世論調査のような選挙ばかりでは困る。政権に一針でも刺すような投票であれば必要であろう。昨日私は統計学担当の教授と世論調査について話しをし、韓国のある大学総長とは電話で話した。彼に戦争になりそうだと私が言うと彼は「心配無用だ」という。平和な心の国民である。読書会、講座の打ち合わせ、講義もした。いつも距離をおいているような同僚が教壇に私が座る良い椅子を運んでくださった。忙しく、嬉しい一日であった。*写真は環境美化のために電信柱を切った跡

悪口の舌戦

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 韓ドラやネット上に投稿されたものを読み、観ながら韓国では言語浄化がまだ十分ではないことを痛感する。セックスに関する、特に近親相姦に関する悪口が多く、嫌な時が多い。ただ日本語の字幕や訳語によって醇化されている。韓国では言語浄化運動が長く続いているが、それは主に日本語からの外来語のワリバシなどの禁止である。北朝鮮では悪口が日常化されている。日本人を「日本の奴」というのは普通である。国営放送でも悪口は多く出ている。ジェスチャーでの悪口も多い。私の恩師の任晳宰先生は「辱説(悪口)考」を書いた。しかし朝鮮語で老人に対する悪口は少ない。トランプのロボットマンRocketmanと金正恩の「狂った老人」늙다리미치광이の悪口の舌戦が続いている。高齢者への悪口は不適切な表現である。しかしその程度は皮肉にもジェントルな悪口と言える。
 下関シアターで朝鮮学校の北朝鮮への修学旅行記録映画を観た。日本での被差別と「禁じられているいる国」に訪問というイメージを持って作り、注目されている感がした。映写中に数回上映トラブル、10分以上暗黙の時間、1950年代の映画館を思い出した。

リハーサル

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 午前4時台のNHK番組「明日へのことば」を聞くことが一日の始まりになっている。それは加齢によるリズムであり、別に勤勉を意味するものではない。その時間帯にもう一つのプログラムが入っている。BBCのHardtalkを視聴する。前者はフリー・トーキングであるが、後者は司会者主導により早口で進行される。深い内容で話すので英語字幕を視ながらの英語リスニング勉強になっている。ノーベル文学賞受賞作家Howard Jacobson氏との対談は意味深い。メディアの発展が読書など文字文化への悪影響を及ぼしていることを語った。映像メディアに集中することによって読む力、パーソナリティや思考能力が低下するという。
 明日の月曜から始まる公開講座「アジア共同体論」の最初の時間は鵜澤教授の司会、櫛田教授と私がイントロを語る。私は講座全体の趣旨を語るためにパーワーポイントを作成した。昨夜家内を前にリハーサルをした。EUのようにアジア共同体は可能であろうか、問題点に迫る。家内のOKを得た。市内の他大学生もAキャンプ科目として単位取得が可能である。関心を持っていただけたらと思いながら報道機関や知人たちにはメールで情報を送っている。

 

 
*「/」はコメンテーター
9/25「ワンアジアに向け」崔吉城(東亜大学教授)・櫛田宏冶(東亜大学学長)
10/2「日本語と国語」上田崇仁(愛知教育大学准教授)/山田寛人(山口大学非常勤講師)
10/23「植民地からみる地図」礒永和貴(東亜大学准教授)
10/30「アジアの軍隊」田中雅一(京都大学教授)
11/6「スペイン植民地」 鵜澤和宏(東亜大学教授)/家根橋伸子(東亜大学教授)
11/13「ベトナムフランス植民地」 李鎮栄(名桜大学教授)/馬場晶子(東亜大学准教授)
11/20「台湾と南洋植民地」植野弘子(東洋大学教授)/上水流久彦(県立広島大学准教授)  
11/27「東アジアカフェ文化」山路勝彦(関西学院大学名誉教授)/瀧田修一(東亜大学准教授)
12/4「満洲国の建国」呂秀一(大連大学教授)*Skype林楽青(大連理工大学准教授)
12/11「国家と戦争」纐纈厚(山口大学名誉教授)/楊小平(東亜大学東アジア文化研究所非常勤研究員)
12/18「東南アジア経済」西沢信善(東亜大学教授)/古川智(東亜大学教授)
12/25「日朝関係北朝鮮」福原裕二(島根県立大学教授)
1/15「東アジアにおける日本建築」諏訪春雄(学習院大学名誉教授)/川野裕一郎(東亜大学教授)
1/22「中華思想清末改革」金俊(淅江工商大学教授)/原田環(県立広島大学名誉教授)  
1/29「民族と国家」鄭俊坤(ワンアジア財団首席研究員)奨学金授与

 


   

「引退牧師」

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 最近会う牧師に「引退牧師」という人が多い。一般的に定年まで職務を全うするのではなく、途中で辞められた牧師だという。牧師という職は聖職として権威があり、尊敬されるはずであるが、他方不安定な職業であることが分かった。信徒たちに同様な言葉を繰り返し説教をし、日常的に付き合っている中でその権威と尊敬を失うと無力になり、追い出される。教会は担任牧師がいなくても説教、司会、掃除、食事、案内など変わらずスムースに営まれている。牧師に似ている職が政治家である。人気や支持率で生きるが不安と緊張がある。比較的に農業は安定職である。戦争中に農民たちは「北でも南でもかまわない」と言いながら仕事をしていた。つまり状況によって変化することなく安定した職業だといえる。

近隣国家への植民地

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 昨日の公開講座の講義「アジアの民族と国家」鵜澤教授のイントロでグローバル化、櫛田教授の美のグローバル化に続いて私から15回の講義全体の趣旨を語った。要領を得たイントロの時間であったと評価したい。この地域で最高の知識研きの講義であると自負する。学生90余人、市民・教員20余人の100人を超える規模で行った。私は40余年間の植民地での経験、調査に基づいて広い視野を広げようという強いメッセージの話に終始した。西欧先進国からの植民地はスペイン、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなど、そして遅れて始まった日本がアジアに侵略と戦争、植民地を行った。韓国の世界一の反日はアイルランドのように近隣国家であること、近隣関係は友好交流が多く、競争敵対があると主張した。質問と意見が多い。近隣国家間の植民地について台湾と韓国の比較は、アイルランドと韓国の比較についての質問などこれからの講義に生かされるべき点である。
 講義の後、孫山氏から私の日本語へのコメント、この度は聞きやすかったと言いながらなぜかフェースブックなど文章とは異なる雰囲気を感じたと言った。言葉と文の差、そこに家内や編集者が存在することを話題にした。このような過程を経て、書籍は読者に提供される。言葉の問題は本講座の来週のテーマになっている。


在日東洋経済日報

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 毎週2回つつ市民向けの公開講座を行う。柳美里氏の講演について遠くからも問い合わせが多い。ネットと口コミによって知性人の反応が感じられる。長周新聞だけは現地取材と深層分析の報道をしている。柳美里氏には期待が大きい。在日韓国・朝鮮人、命、自殺など重いテーマが浮かぶ。それらは私にも重要な研究テーマであり、聞きたい。自殺というテーマはエミール・デュルケーム(Émile Durkheim)の『自殺』Suicide以来多くの研究成果がある。ここで自殺論を披露するわけではない。自殺予防対策論でもない。深刻な人生論である。私自身文学青年時代に自殺を考えたことがあり、日本人の文学者の自殺については『恨の人類学』で書いたことがある。彼女は高校生向けの講演から始まり、『自殺』の終わりに快楽(セックス)とエイズの倫理(?)関連性の指摘には脱帽である。お尋ねしたいことが多い。本欄の読者から柳美里さんへの質問を承りたい。来られて、直接質問してくださればなお嬉しい。  

長生きとは

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 私は戦前の貧困農村の出身である。我が家には回る道具は綿の種を取るムレ、木の臼位い。鉄でできたものは包丁と鎌、若干の農具があった。常備薬はなく、トイレットペーパーもない。小学校4年生まで自動車を一台も見た覚えがない。日本の警察の自転車を見たことがあるだけであり、ほぼ石期時代の後期のような状況であった。そんな時、朝鮮戦争が起きたのである。飛行機や戦車、銃、大砲など多くの武器を見た。残酷な戦争の中に巻き込まれた。当時最新の武器、文化に接した。10歳ころの私にとっては、原始時代と現代文明との混合であった。このような農村出身であることとは不名誉に思われるかもしれない。しかし私はそうとは思わない。今私は長生きをしていると思うが、それはただ年齢を指すものではない。石器時代からインターネット時代まで、第1波、第2波、第3の波を全部生きてきたという意味がある。戦争体験談である最新著『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか』について慶南大学校の張教授が研究論文を発表をするという電話を受けた。嬉しい。

黒田勝弘『隣国への足跡』角川書店2017

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 黒田勝弘氏の連打の本「ぼくの日韓史」と宣言の『隣国への足跡』を読んでいる。気になる言葉が続いている。特に親日と反日である。「朝鮮半島における南北対決は、日本を受け入れ「親日が率いた南が勝ち、日本を拒否し続けた「反日」の北は負けたのだと。日本統治が終わり、日本人が去った後にも、朝鮮半島にはこうして日本が残り続けたのである」という最後の文である。本当に精粹に匕首を刺す言葉である。しかしこれは中国や東アジアに広く適応される言葉である。昨日授業では植民地の負の遺産を残すか、破壊かと学生たちが激論した。中国の女子学生は残すだけではなく博物館などで作り上げるべきだと主張した。私が匕首で刺された感がした。

柳美里と対談

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 昨日の午後作家柳美里氏を新下関駅で迎え、半年ぶりの再会であった。下関には初めてということで在日韓国・朝鮮人が多く住んでいるグリーンモール商店街を歩きながら紹介した。私の知り合いの女性にも会った。通りを抜けて、朝鮮会館、韓国教会、朝鮮学校へ。生徒たちは例外なく挨拶の言葉とお辞儀をしてくれた。盧先生の案内で教室で二人の女子生徒がカヤグムを演奏してくれた。そして城下町の長府、功山寺では突然住職の有福孝岳先生に声をかけ、柳美里氏を紹介した。有福先生はカント哲学者、親切にも境内の文化財、仏像、苔の美しい内庭など見せてくれた。今日の柳美里氏の講演会は彼女の希望により私との対談の形式行で行う。主に彼女の話を聞くことになる。大きく期待している。

「芥川賞作家」という肩書

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 有名な作家との対談の冒頭に「芥川賞作家」という「肩書」に乗って生きるのかから始まった。彼女はそれはいわば新人賞的であり、始まりであり作家として継続して活動をすることが大切であるという趣旨で話が進んだ。しかしデビューの時からプライバシー侵害ということ、裁判までなっていく過程のことに触れた。小説はフィクションでありながらリアリティがあるのでそれを混同する問題は常にある。それは法律との戦いでもある。私はD.Hローレンスの「チャタレー夫人の恋人」が裁判になったが、今は話題性もないことを例にした。「在日韓国人2世」という存在は彼女の文学においてどんな意味があるのかと問い、2世、3世・・・民族性はだんだん薄れていくという。ある評論家が言ったように「在日朝鮮人文学から在日文学」へという発言に私はそれは普遍的な文学へと評価した。そして彼女の主な重いテーマである命、死などに関する討論を深めた。その中で自殺について日常に乗って生きることを否定して自殺した太宰治、肯定的な生命倫理とのバランスを問ってみた。彼女はその時代から人生観も変わっているという。成熟の意味で理解できた。ほぼメディアには報じられず90人を超える参加者が彼女のお話に魅了されていると感じた。 

日本語と国語

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  気になるニュースとして、スペイン北東部カタルーニャ自治州の独立の是非を問う住民投票が報道されている。政府側が投票箱を押収しようとして独立派住民と衝突した。混乱はさらに続くだろう。反乱という大逆罪の現象が起きている。統合と分裂、愛国と反乱、束縛と自由の現象は国家や民族だけでの話ではない。それらの歴史は国家において、また個人においても繰り返されている。結婚と離婚もそれに似ている。
 本日戦争と植民地をテーマに「アジアの民族と国家」の2回目の講義「日本語と国語」を東亜大学で行う。市民にも公開している。講義担当者の上田崇仁氏とコメンテーターの山田寛人氏も私の教え子であり、学生時代から多く議論したテーマである。アジアに日本語が広く多く普及され始めたのは日本の植民地と戦争によるものである。日本語だけではない。英語やフランス語などもそうである。植民地支配語として英語、国際語としての英語、それはコミュニケーションによるものである。「言霊」の話ではない。
  

言葉コミュニケーション

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 昨日は広島大学時代に私が博士論文の指導をした学生だった二人と共に講義をした。上田崇仁氏の発表と山田寛人氏のコメントで進行した。日本語は昔日本帝国の国語であったが、戦後も比較的に日本語学習者が多かった。しかし最近大きく減少している。特に韓国が一番激減している。世界一の反日国を意味するのだろうか。日本語を母語とする人に国語として教えるのと違って朝鮮語を母語とする人に日本語を教えた経験は現在も他国籍の人々の日本語教育に有効であると述べた。朝鮮人に日本語教育をしたが朝鮮語抹殺教育だけであったのか、外国語教育であったのかはどうだろうか。言語学的には植民地や戦争などによる言葉の普及はそれほど大きい差がない。言葉はコミュニケーションの手段として重要な役割があるからである。


植民地研究の視点で

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竹下一記者の記事は最高の名文、ワンアジア講義の担当者と受講生全員に配らせていただく。講義全体の要約、順序、論理、明快な文には脱帽、脱帽である。感謝します。

崔吉城教授が講義:植民地研究の視点で

 下関の東亜大学の公開講座「アジアの民族と国家」が九月二五日から始まった。その第一回目の講義で、崔吉城・同大学教授(文化人類学)が植民地研究を踏まえて問題を提起した。
 崔教授は「日本とアジアの関係を見る場合、戦争と植民地が中心になる」と指摘した。世界史におけるスペインやフランス、イギリスなどが地球的規模で展開してきた植民地の事例と対比して、後発の宗主国となった日本帝国主義と台湾、樺太(サハリン)、朝鮮、パラオ、満洲など、アジアの植民地との関係について明らかにした。
 日本の場合、「戦争、占領、条約などによる植民地化、拓殖会社、近代化、強制動員、人の移動・移住」など、西洋の植民地支配を真似たものが多く、日本に近接する地域を植民地化してきた。植民者は「にわか成金」のような特権的態度をとるものが多く、一般労働者と変わらない植民者でも、被植民者に比べ法律的経済的などの面で優遇されいたことにも触れた。
 崔教授はまた、日本が「大東亜共栄圏」を求めたが失敗したとと関連して、満洲の開拓民が「夢を持たされた」あげく悲惨な目にあったことや、ミャンマーにおけるインパール作戦など兵隊に動員された民衆の凄絶な経験を上げた。さらに、日本の植民地から解放された韓国の反日感情の強さについて、「イギリスとそれにもっとも近接した植民地であったアイルランドとの関係に酷似している」と指摘した。
 崔教授はそこから、アジア共同体について「日本のアジア侵略と植民地統治による負の遺産、国境(領土)問題、米軍駐屯など軍事的な対立があり、共同体構築が難しい状況がある」と語った。そこから、EU共同体が経済的な協力が中心であるのに比べて、東アジアの共同体は「平和と安全」を求めることが中心になると強調した。
 崔教授は北朝鮮をめぐる軍事的緊張と関連して、「私自身、朝鮮戦争を直接体験したので不安だが、韓国の友人たちは心配するなと言っている」と紹介した。そして最後に、戦争と植民地の関係修復は国と国との政治的駆け引きではなく人間関係、つまり人民間のつながりを強めることによって可能であると提起した。*写真長周新聞2017.10.2

中秋・秋夕

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 今日は韓国や中国では名節の中秋・秋夕である。秋夕は長い歴史上,中国文化圏であった伝統文化として持続している。韓国では1月3日の開天節、9日ハングルの記念日が土日曜日と合わさって10日ほどの長い連休だという。しかし日本では無感覚、普通の日である。在日韓国・朝鮮人にもこの名節の文化は存在しない。日本在住の教え子から牛肉とお菓子が届いた(写真)。これで一気に秋夕という雰囲気が湧いて、子供の時を回想した。今から考えるとその時代は貧困の時代、私の負の過去かも知れない。しかし決してそうではない。当時私は貧困と感じなかった。人は 後になって「当時」を幸,不幸と思うだけである。「当時」はただひたすら生きていた時であろう。

非常にプライベートな話、しかしフィクション

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 今朝のハードトーク番組で作家があり溢れるラブストーリの話は、非常にプライベートな話であるがフィクションであると言った(private but fiction)。実は先週柳美里氏との対談がそうであった。深い話であった。しかし聴衆は静かに話の流れに乗ってくれた。毎日新聞の上村理花氏と長周新聞の竹下一氏によってその旨報道された。竹下氏は昨日長文の記事にしてくれた。その深い話の意味を明瞭に綴っている。感謝である。

 柳美里氏は初めに、母親が朝鮮戦争の混乱から逃れて最初に着いたのが門司港であったことなど、下関に対する特別な感情を語った。そして、在日韓国人として生まれ育った家庭環境や不登校も韓国人でもない、アイデンティティーがない」という苦悩を抱えて演劇・文学活動に入ったことを明らかにし、その後の体験から文学と人生に関する認識を発展させてきたことを紹介した。
 崔吉城教授は、「自殺をめぐる作品に関連して、「人はなぜ生きるのか」という人間的普遍性を文学を通して描く意義を強調した。また、「芥川賞作家」という肩書きを笠に着た商業的な作品ではなく、人間の内面の真実を追究する純文学への期待を語った。これに対して、柳美里氏は「息子の出産と東日本大震災が星きる価値がない”という青年期の価値観を、どんな困難な状況にあっても生きる価値がある”と、大きく変える契機となった」ことを明らかにした。また、「日本社会では毎年三万人もの自殺者が出る。とくに被災地では自殺が多く、岩手、宮城は以前の水準に戻りつつあるが、福島だけは高止まりしている。それも原発の避難区域であった浪江町、南相馬市に多い」とのべた。そして、「毎年、東日本大震災の犠牲者を上回る人人が、生きる価値がないと考えている社会について、文学者は考えなければならない」と強調した。さらに、「だれのために作品を書いているのかと問われたとき、居場所のない人のために書いていると答えている」と語った。その念頭にあるのは、東北被災地で居場所を失って生き方に悩んでいる人人である。現在、福島第一原発事故による避難指示を解除されたばかりの南相馬市小高区に居住し、作家活動の傍ら地域放送局やエ業高校の講師を担当するなど住民とともに地域振興のあり方を探っている。このことも、一人一人の被災者の物語を知って、創作に生かす活動と結びついていることも明らかにした。
 対談は、「芥川賞をどった作家が、そのあと書けなくなる」(柳美里氏)・・・・・・

 

 

楽しい苦労

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 文芸小説家の柳美里氏と対談したばかりでノーベル文学賞受賞者が発表された。賞と全く無縁の私にとって賞はただ社会的評価の一つに過ぎないと思うが影響は大きい。日本では日系イギリス人のカズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)氏が受賞したと大きく報道している。文学に全く関心のない人さえ「日系イギリス人」だということで喜んでいる。なぜであろう。
 2年前にBBCの「著者に会う」という番組で偶然に彼の話を聞いてくまざわ書店で見つけた彼の作品を読んだことがある。戦前の思想を持ち続けた日本人を描いたという『浮世の画家』(原題:An Artist of the Floating World)である。面白い発想である。帝国臣民が戦後の状況をどう考えるかに関心があり、印象的であった。
 私の机の上には出版社から送られてきたゲラがある。脱稿して3年近くなる。紆余曲折、タイミングを待っていたので、封筒を見て開く勇気さえなかった。編集者の丁寧、完璧に近いゲラを見て頭が下がるだけであった。明日講演を終えて連休には家内と一緒に楽しい苦労の校正の味を満喫したい。
 

教会と神社

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 昨日はキリスト教会と神社に足を運んだ。韓国からキリスト教聖潔教団の総務と日本向けの宣教牧師が来られたのでお迎えするために下関教会へ行った。周辺地域の牧師らも参加した。談話の中で私は宣教の主な対象が在日か、日本人かと質問した。牧師は聖書の聖句もってどの人種、民族でもという決りの言説。日本ではクリスチャンは極少数、さらにマイノリティの在日の極少数に在日中心の宣教では困ると反論した。宣教を叫びながらインタネットのホームページも管理していない点を指摘した。
 その後私は赤間神宮で演奏される雅楽を鑑賞した。全員起立「君が代」の斉唱から始まった。メロディ性が少なく、音が長く響く、リズムも遅い。「君が代」の起源を味わうような気分であった。雅楽は王権の聖なる権威を表す音で演奏される。私が知っている「王昭君」の話もされた。私は昔韓国の文化財専門委員としてほぼ毎年鑑賞したこともあり、韓国のものと比べて聞いた。ここでは踊りが大部あり、それも南方文化の影響のような拳式舞に特徴があると思った。

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