昨日はペンテコステ、キリスト教の宗派もできたキリスト教の記念日であった。下関教会ではイエスの「異言」(神託)の聖句を以て説教が行われた。牧師は異言を泣くこととして「故郷の言葉」として、教会は「慟哭の場」であるように説教した。彼の両親は北朝鮮から避難してきた避難民として辛かったファミリーヒストリーを語った。大人は子供の前では泣けないので教会で泣いていたという。
韓国の教会では「通聲祈祷」や泣き聲が多い。日本人には馴染まない礼拝様式である。韓国人から見ると「日本人は血も涙もない民族피도 눈물도 없는 민족」、人情がないとも思われるかもしれない。しかし日本人は「無聲涕泣」すなわち涙が泣く現象である。韓国人の「哭」と日本人の「涙」の対照である。拙著『哭きの文化人類学』(勉誠出版)を勧めたい。
「慟哭の場」
新刊紹介
【新刊紹介】近現代史研究家・松枝智瑛
崔吉城著『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実 文化人類学者が読み解く『慰安婦の真実』おそらく自分の日記が後に他者の目に触れることになるとは思はなかっただらう。だからこそ、自身が見、感じたことを偽りや誇張を交へずに記してゐると言へる。
タラの芽
留学生たちは刺身、生卵、馬刺しなど生食には慣れていないと言う。生食は私もまだ若干不慣れだが日本の食文化の大きい特徴である。私には野菜の食材にも抵抗があるものがある。ミョウガ、山芋、オクラなどもまだ不慣れな日本の食材である。中には日韓共よく好んでいる海藻の海苔がある。味の付け方が異なる。山菜でも日韓で食べる物の有無や味付けが違う。毎年北海道網走の家内の兄からタラの芽が送られる。昨日の夕食で家内が軽くゆでて洵を味わった。その香りと味はカレーより美味しく、親しい。懐かしい。
「正直と不正」
映画「万引き家族」がカンヌ映画祭で最優賞、日本社会の正直さを表すようなそうでないようなと思える。昨日アメリカンフットボール試合で反則者の学生のインタービューを聞いた。純粋な正直さを感じた。20才の学生と財務管理局とが「正直と不正」のように対照的に伝わった。彼が監督のプレシャーを語ったら記者たちの誘導質問、字幕ニュースでは「監督の指示」とされたところがあった。町の明屋本屋に寄った。<日本が尊敬されている>など売るために表紙、ただ情報集めのような類が目立つ。「正直と不正」の対照を感じた。私の本はどうなのか、気になった。
生檳榔を持って
台湾から50代のお客様がお土産として生檳榔を持って来られた。丁度2年前からフェースブック友になった方で昨年末台湾国立中央研究院での研究会に参加していただいた方である。彼は30年ほど前新宿に住んだことがあり、日本はとても懐かしく、十数年ぶりの日本への一人旅はとして下関に来られた。夕食を逆にご馳走になって申し訳ないというと私との出会い以来、二年間で株などでも損をしたことがなく利益があがり、感謝であるという言葉が帰って来た。それはどういうことでしょうか。私からのヒントというが、霊力のような力であろう。シャーマニズムの霊力ではないかと思った。
反則と喧嘩
日本ではスポーツ競技中の反則が社会のバッシング。メディアは日大と関学院の喧嘩へと煽動する。監督の「反則の指示」がポイント、試合であれば勝負がポイントであるはずなのに試合と喧嘩の区分はないのか。米朝の駆け引きへのメディアと似て関心がある。米朝首脳会談のキャンセルニュース、残念である。北朝鮮のペンス副大統領への人身攻撃的な非難文を読んで私は心配したが、やはりそれが一つの大きい理由であろうという情報もある。いくら交渉や駆け引きとはいっても言葉(声明文)には最低の礼儀は守るべきであろう。北朝鮮側は素晴らしいショーをしたし、破棄作業が始まったとメディアに公開中であり、困っているのではないか。交渉か喧嘩か分かり難い。
私事であるが
私事であるが私は毎日ブログ、ツイッター、フェースブックに投稿している。それは長い間日記を書いた習慣の延長である。数年前までは日記と並行して投稿したが最近はこれが日記を兼ねている。しかし日記は自分のプライベートなものであるのでこれは日記とは言えない。日誌、手紙などにも類似している。なぜ本欄で公開投稿するのか。記憶や記録は指紋、映像などで自然に記録されるが、思考は残らない。「考える、対話する」ために投稿する。読者と一緒に考え対話したくて、本欄に投稿し、本を出す。
ベストセラーマーク
拙著『慰安婦の真実』がアマゾン売れランキングにベストセラーマークが数日間消えたり付いたりしている。今のところ順位が下がってもまだ続いている。感謝である。慰安婦問題の良し悪しと連動している。時代や社会の状況と関連するのは良いが、読者にはそれをもって社会へのメッセージがあることに注目してほしい。時代や社会の変化によって忘れられてしまうのはの寂しい。本当の意味で「拙著」ではあるが時代を越えた著書でありたい。
「つぶせ」
スポーツ試合の監督と選手の関係が問われている。私は長く教育に関わっている者として教育という面から監督が試合前に選手に「つぶせ」という言葉に注目したい。「つぶせ」ということばが「指示か」と問われている。信頼がなければ「頑張れ!」が「殺せ」「反則せよ」と解釈されうる。先生の言葉は軍隊内の命令とは違う。教授、コーチ、監督という立場ではなく、「先生」として問われてほしい。「先生」は世論に左右されることない。「先生」はただの職人ではない。
「善なる牧会者」の涙
広島で信仰生活を共にした女性が下関に引っ越してきた。十数年ぶりに礼拝を共にした。当時、アメリカから宣教のために日本に来られた蔡牧師の思い出話をした。蔡牧師は資金と宣教活動に力を尽くし、4階建てのビルを買い、信者も増えて安定するようになった。定年のために彼は新任の牧師を連れてきた。彼は後任者によって涙を流しながらアメリカへ戻らなければならなかった。私が親しく付き合った「善なる牧会者」の涙であった。都市の一角の知られざる逸話、聖書に出てくる裏切り話のようなストーリーであった。
「楽しい韓国文論」
市民向けの「楽しい韓国文論」(写真2017年9月)が今年で7回目を迎える。パンソリ(歌)、食文化、通信使、板門店、映画、音楽などそれぞれテーマを以て行っている。市民が韓国に関心を持てるように講義、そして現地の韓国へ探訪旅行をする。これは東亜大学東アジア文化研究所と日韓親善協会が共同主催で、政治やメディアとは関係なく、純粋に民間レベルでの文化交流のためのものである。7年目になるとテーマの選定も難しくなる。面白さが尽きたのかというところに朝鮮半島事情の大きい変化、国際政治が面白い。ご意見など情報提供を待っている。
作品の秘密
昨日は早朝学長と談笑、講義では十年以上愛用した自慢の照明式プロジェックターの鮮明度が低下して古物化、困った。2冊の出版を並行するのに忙しい。家内の校正、中でも私の日本語不足。ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を音読しながら日本語の勉強も並行している。土屋政雄氏の訳者後書きに「翻訳家としての私のいいところでもあり、厄介なところでもある」「秘密をばらさない」とある。作品の秘密、それが面白さ、力である。新聞のように見出しで分かる書き方では駄目。読者が減るのに対抗、戦う執筆であると感じた。
カザフスタン抑留記
テレビ新広島のドキュメンタリーを見て、2009年数回山口県周南市熊毛町の八代盆地に住んだ弘中数実氏にインタビューと彼の体験記ノートを整理したものがあるのを思い出した。このように下関に住み始めて以来郷土史的な資料を発掘して整理、出版などもしたが地元の人、メディアは関心が少ない。彼らは郷土愛よりは、排他心が強いように感じる。弘中氏は日中戦争とカザフスタンに抑留を体験し、日記式のノートを残した。これに関して次の作業にしたい。
「対話」の意味
読者たちからのコメント葉書
近刊発行の校正、家内が楽しく読了したというので、まず読まれるということで一安心。これから私の校正が正念場である。私の朝鮮戦争の生体験を記した内容である。自ら読んでも新鮮さを感ずる。記憶と記録の相互作業である。本の題に腐心している。出版社から校正紙と読者たちからのコメント葉書が十数枚とコピー資料が届いて読んだ。ほぼ強制連行と性奴隷に批判的な意見、中には著者が日本文化、植民地を誤解しているのではないかとも。ここに拙著『慰安婦の真実』の発行から半年強過ぎ、SNSでも多くのコメントが上がっている。中でもamazonに評価の低いsatophone氏のコメントにhatsukanezumi氏が返答した、質疑を紹介する。
_前借金契約については当時も内外で問題視されたことは事実でしょうが、どれだけの朝鮮人慰安婦がその前借金によって労働させられていたのですか?あるいは個人の意思でなく契約をしたのですか?「他もやってたから日本だっていいじゃないか!」などということはありませんが、まるで"日本だけの異常"かのように言うのは誤りでしょう。
従軍慰安婦が強制連行された性奴隷であるということを何ら論証できていませんからね。
長々と無駄なコピペをしていますが、朝鮮人慰安婦にの一部にそういうケースもあったかもしれない、というだけですね。どれだけの人が前借金によって契約したのかもわからないし前借金と一口に言っても内容は様々でしょう。実際、慰安婦(特に朝鮮人)の実態はなかなかわからないわけで、その中でこの朴氏の日記は朝鮮人慰安婦がどのようなものであったのかを知る貴重な資料。そしてその中で朝鮮人慰安婦はとても性奴隷と呼べるものではなく、比較的いい生活をできていたということをわかる。もはや「慰安婦は強制連行された性奴隷で無ければ"ならない"」という"前提"に縛られているあなたは認めたくないでしょうが。
あなた個人の定義による性奴隷があなたの中にいたというだけで。
現代的観点から見れば不自由だったから、あるいは本人の同意が本当にあったのか不確かだから、というのであれば有史以来のほぼ全ての売春婦が性奴隷となるのではないですか。昔の欧米の売春婦はみんな完全に自由な身分で、完全に自分の意思で売春を行っていたのでしょうか。昔の欧米の売春婦はみんな完全に自由な身分で、完全に自分の意思で売春を行っていたのでしょうか。「みんな」ってそんなだいそれたこと、私に分かるわきゃありません。少なくとも、前借金で縛って拘束して、逃げだしたら警察が追ってきたって話は聞いたことありませんがね。
長々と無駄なことを書いていますが、逆に言えばそのことが結局日本軍が朝鮮人慰安婦を強制連行や性奴隷したという証拠は無いということですね。あなた個人の定義による性奴隷があなたの中にいたというだけで。現代的観点から見れば不自由だったから、あるいは本人の同意が本当にあったのか不確かだから、というのであれば有史以来のほぼ全ての売春婦が性奴隷となるのではないですか。昔の欧米の売春婦はみんな完全に自由な身分で、完全に自分の意思で売春を行っていたのでしょうか。
「一部の朝鮮人慰安婦に業者に騙された人がいる」というだけですね。この日記からもわかるように軍による朝鮮人慰安婦強制連行なんぞもなかったし、慰安婦と呼ばれる方々は性奴隷ではなく職業的売春婦であった。もちろん好きで売春婦になった人はいないだろうし、そのような職業になってしまったことには同情します。しかし慰安婦を性奴隷と呼ぶのであれば、現代の売春婦や性的サービスを職業とする人々全てを性奴隷と呼ぶほかない。
模様替え
家は単に休む所、ひきこもる所ではない。私にとって家は楽しい作業の場である。数日間部屋に閉じこもるようになることが多い。それは引きこもりのような消極的なことではない。より積極的な「杜門不出」ということである。つまり外の社会からひっこむようなことではなく、むしろ世界とつながる作業のためのより積極的なSNSと繋がる場である。私にとっては家が作業室と同時に文化空間である。昨日も作業の合間に模様替えをし、花を飾ってみた。私の趣味のような模様替えの意欲はまだまだある。
慰安婦博士
トランプ大統領にハーグした慰安婦のイ・ヨンスさん(89)氏が課程を修了し、大邱大学から名誉哲学博士学位が授与された。それ自体にはコメントしようもないが、学長が「まだ続いている日帝下の独立運動をしている」と話したという。意外な、そして常識外れと感ずる。韓国の慰安婦、日本の拉致問題は「対」として受け止められる。二つは人権問題、犠牲者がいるという共通点がある。トランプ大統領は核問題の解決に取り掛かっている、それに日本は「拉致」でブレキーを掛けている。日本は「敵対」を続けたいのであろうか。
「忖度」(알아서)
この数日は特にコンピューターから離れられない。6月朝鮮戦争記念日頃に出る次作のために出版社の編集者とのやりとりをするためである。250余ページの本の原稿や写真などの校正紙がネット上受信、送信しながら作業を進める。このように仕事の超スピード感が好きな私を知っていただいて(?)嬉しい。ネットでも理解と信頼があれば仕事が効果的に上手くいける。これは命令や指示によるというより、自ら判断して仕事をする姿勢である。「忖度」という日本語を初めて知った。韓国語ではアラソ(알아서)「自ら判断して行うこと」という意味である。上司に部下が忖度するのは良い、今日本では悪いように使われている。日本語、日本的思考の理解は難い。あまりにも浅い枝葉的な問題に没頭し、大局的に外れているからである。
八文字歩き
立って講義をしてから図書館で学長夫人らの女性と対座してから気が付いた。出勤時には異常がなかったのに私のズボンの股の部分がやぶれてしてチラチラ露出している状況であった。それほど古くないズボンの異常であった。最高の恥を感じた。大手術の時ICUで若い看護師には露出状態でも恥を感じなかったが、恥と感ずることは健康だと言うことであろう。帰宅の寄り道、家内とショッピングとの時は花魁の八文字歩きか、ミスユニバースの脚線美X型歩きのようにした。家内は笑いながら少し離れて買い物をしていた。ズボンの縫い方とメーカーを調べた。中国製であった。
日本人は好戦的である
多くのアジア人から日本がなぜ激しい戦争をしたのか。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争を行ったとは思えない。現在の日本人はよわよわしく優しく親切なのに。私もそう思う一人である。しかし最近のメディアなど日本の世論、ポピュリズムを見て「好戦性」を首肯するようになった。昨日帰宅時送ってくださった方は今の言論、特に新聞は戦前の「戦争賛美」と同様だと言った。驚いた。日本人が戦争好きであるということばに。セクハラ、反則、不倫などには非難のレベルをはるかに超えて「好戦的世論」といえる。今の日本のメディアは危険水準であると警告したい。