1960年「四月学生革命」(東洋経済日報コラム2020.4.17)
丁度60年前の4月19日は私が生きてきた歴史の折り目を思い出させる。私は1959年ソウル大学校師範大学にい入学、洋々たる自分の夢に向かって歩もうとしていた。初めての大学講義、アメリカから留学帰りの鄭範謨先生の教育学講義を受講した。先生は後進国の政治的運命に対してエーリッヒ・フロムの『自由からの逃避』を例にして話された。その本は私が読んだばかりの本であり興奮を抑えきれず、挙手をして発言した。その時、受講生たちから「博士」というニックネームを得た。
その本は自由民主主義とは突然現れるものではないこと、そして、突然自由が与えられたら放任主義になり、社会が混乱するという内容だった。王朝、植民地、そして李承晩大統領の独裁が長く続いていた韓国、自由と民主主義の経験がなかった韓国では民主主義は無理であろうか。本のメッセージは本当に大きかった。
李承晩氏はアメリカの名門大学から哲学博士号を取得された神様のような老大統領であった。一般国民は彼には、さほど反感がなかった。しかし一九六〇年三月一五日に行われた不正選挙に激しい反発が起こり、学生デモが起きた。スクラムデモに私も参加した。その日は高麗大学からデモが始まり、ソウル大学校の商科大学と師範大学から大統領官邸の景武台に向かって西へ進行した。そのデモ隊に李承晩独裁政権の内務部長官の崔仁圭の発砲令によって無差別に発砲された。死者183人、負傷者6259人に達したことを後日知った。
学生たちの流血革命によって政権は転覆した。その後、国内は混乱状態になった。自由を維持する政治文化がないのに自由が飽満しすぎ、全国的に毎日のようにデモが起きた。この時、民主主義を根下ろす時期だと思って、心より民主主義の安定を願い、祈り、私は社会奉仕のために啓蒙隊に参加し1か月半ほど奉仕した。
やはり政治文化の基礎が浅い韓国では自由と民主主義の土着は難しい。一九六一年五月一六日に突然、私は東大門前に立っていた。武装電車と武装軍人の姿、そして夜から画像・映像で初めて小柄で浅黒い男、朴正熙氏の姿をみた。異様であった。神像のような李承晩とは真逆の印象の軍人であった。混乱していた中で憂慮されていた朴正煕軍事クーデターであった。繰り返し革命公約が流れた。反共と反日の国是から「反日」が抜けていたことは意外であった。
長い間、大学は閉鎖、休校になった。その長い休校中にも関わらず、私は李杜鉉先生の研究室で行われていた読書会に参加していた。そんなある日のこと、ソウル大学校師範大学生が走る朴大統領の車に石を投げるという事件が起こった。朴正熙氏は無言で、車から降りて、歩いて、大学門へ行き、守衛室で学長室を尋ねて黙々と歩いて学長室へ行き、イ・ジョンス学長に「学生の指導をしっかりするように」注意をし、その場を去った。学長は即刻、解任された。それによって、その読書会も大学ではできずYMCAのビルに場所を移して続けられた。
また大学では異変に起きた。私の尊敬する二人の先生が逮捕されたのである。鄭範謨先生と尹泰林先生の講演会、「民主か独裁か」が東亜日報夕刊に大文字で報道されたことにより、お二人の先生は解職、逮捕されたのである。私は大きく衝撃を受けた。私は尹先生を心から尊敬しており、以前にも尹先生からは国民教育憲章を非難した寄稿文で危機を感じて逃避した話を聞かされたこともあった。後に先生は文教部次官を経られて、慶南大学校総長となられた。そして日本留学を終えた私を慶南大学へ招聘して下さった方でもある。多くの著書中、日本で出版されたものに『韓国人の性格』(高麗書林)がある。
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1960年「四月学生革命」
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